第2節「闇の密会」
精霊界の外れに、闇の森と呼ばれる場所がある。
禁足地。精霊すら足を踏み入れない。
木々は枯れ果て、幹は黒く朽ちている。葉はとうに落ち、骨のような枝が夜空を引っ掻いていた。月明かりすら届かない。森全体が、光を拒んでいるかのようだった。
腐った木の匂い。虫の音もない。
その闇の底で——二つの影が向かい合っていた。
一人は長身で細身の男。銀色の髪が闇の中でかすかに光る。切れ長の目。整った顔立ちだが、どこか爬虫類を思わせる冷たさがあった。
狡猾の長、ゼル。
もう一人はフードを深く被った男。その手にはなぜか——光る板を持っている。
スマートフォン。
精霊界の闇の森で、画面の青白い光が浮いていた。場違いにもほどがある。光る四角い板は闇の中で異様に目立つ。まるで深海に沈んだ灯台のようだ。
「それは何だ」
ゼルが眉をひそめた。
「動画」
フードの男——執行者デイブが、画面を見せた。子猫が段ボール箱に突っ込んで転がる映像が流れている。
「\...\...貴様、ふざけているのか」
「いや、これがいいんだ。見ろ、この肉球」
ゼルの目が細まった。殺気が滲む。
「——まあいい」
デイブはスマートフォンをポケットにしまった。しまいながらも未練がましく画面を一度チラ見したのを、ゼルは見逃さなかった。
ゼルの前には一本の杖が置かれていた。古びた木の杖。一見すると何の変哲もない。精霊界の宝物庫から持ち出した代物。
人々を癒す杖。
「さて」
ゼルは杖を見下ろした。
「こんなものがあっては困る。破壊させてもらおう」
手のひらを杖に向ける。
黒い炎が噴き出した。闇の炎——触れたものを灰すら残さず焼き尽くす、終焉の力を宿した炎。
炎が杖を包み込んだ。黒い渦が杖を呑む。熱はない。闇の炎は「焼く」のではない。存在を「食う」のだ。
一分。二分。五分。
炎が力を失うように萎んでいく。まるで杖に吸い取られたかのように。
炎が消えた。
杖は——無傷だった。焦げ跡一つない。炎に晒される前と、何一つ変わっていない。
「\...\...ほう」
ゼルの目が細まる。今度は違う。
両手を組み、呪詛を唱え始めた。低く重い詠唱が闇に響く。崩壊の呪詛——あらゆる物質を分子レベルで崩壊させる高位の魔法だ。
紫色の光が杖を包んだ。光が脈動する。空気がびりびりと震え、杖の表面がわずかに震えた——ように見えた。
ゼルの口元が緩む。効いている。
だが。
光が収まった。
杖は——傷一つない。
ゼルは無言で杖を掴んだ。
虚無の魔力を流し込む。存在そのものを消し去る力。杖が黒い靄に包まれた。触れた指先から這い上がるように、靄が杖全体を覆う。木目が見えなくなる。杖の輪郭が溶けていく。
しかし。
靄は弾き返された。ゼルの手を跳ね除けるように、衝撃が指先を走る。杖は何事もなかったかのように、静かにそこにあった。
沈黙。
フードの下で、くすくすと笑い声が漏れた。
「覚醒具だからな」
デイブが肩を揺らしている。
「末裔以外には壊せない。俺も試したことがある」
「最初から言え」
ゼルが睨みつけた。金色の瞳に怒気が宿る。
「言っても信じなかっただろう?」
デイブは悪びれない。
「それに——お前が悔しがる顔を見たかった」
「\...\...貴様」
ゼルの手に黒い炎がちらつく。だが、すぐに消した。ここでこの間抜けを焼いても何も得るものはない。
深く、息を吐いた。
杖を拾い上げる。古びた木の感触。こんなものに阻まれたのか。
そして——不敵に笑った。
「ならば簡単だ」
ゼルの目が冷たく光った。爬虫類の目。感情が消え、代わりに計算だけが残った目。
「末裔を殺せばいい」
デイブの笑いが止まった。
「俺が関わっていては末裔は殺せない」
「ならばあの付き添っている娘をやればいい。杖は餌だ」
ゼルは杖を掲げた。闇の中で、杖だけがわずかに光を帯びているように見えた。
「娘を呼び出して始末する」
「それがいい」
デイブが頷いた。フードの奥で目が光る。
「あの三人の中で、一番厄介なのは異世界から来た娘だ」
ゼルが眉を上げた。
「厄介? 一番弱そうに見えるが」
「見た目に騙されるな」
デイブの声が変わった。ふざけた調子が消えている。
「あの娘の知恵がなければ、末裔たちは集まれない」
デイブが指を折り始めた。
「放牧民の国では、クランの不正を暴いた。評議会を動かし、末裔を覚醒させた。全ての策はあの娘が立てた」
指が四本、折れた。
「俺の計画を全部ぶち壊しやがった」
その声には、笑いのかけらもなかった。間抜けの仮面が剥がれた瞬間。そこにいたのは、自分の計画を潰された者の静かな怒りだった。
ゼルは顎に手を当てた。
「なるほど。頭を潰せば——残りは烏合の衆というわけか」
「そうだ」
デイブは一歩、後ろに下がった。闇に溶け込むように。
「私は直接手を下せない。盟約の制約でな。だが、情報は提供できる」
「十分だ。任せておけ」
ゼルの唇が弧を描く。残酷な笑み。
デイブは踵を返した。背中が闇に沈んでいく。
——が、足を止めた。
「それと」
振り返らないまま。
「あの娘には気をつけろ。お前が思っている以上に——厄介だ」
「ふん。忠告か?」
「警告だ」
デイブの声が遠くなる。
「俺は十五年、あいつらを見てきた。あの娘は——何かを持っている」
闇が呑んだ。デイブの姿はもうどこにもない。ポケットの中のスマートフォンの光だけが最後にちらりと見えて、それも消えた。
ゼルは一人残った。
手の中の杖を見つめる。古びた木。何の変哲もない見た目。だが、今この杖はただの杖ではない。
餌だ。
獲物をおびき寄せる、最高の餌。
ゼルの目が細くなった。蛇が獲物を見定めるときの目だ。
「弱そうに見える娘が一番危険、か」
口元が歪む。
「なおさら——先に潰すべきだな」
「使者を送れ」
ゼルは闇に向かって告げた。木々の影がかすかに揺れる。何かが——いや、誰かがそこにいたのだ。ゼルの配下。闇に潜んでいた者。
「明日、王宮に」
返事はなかった。だが、枝の影が一つ消えた。使者は既に走り出している。
ゼルは杖を懐にしまった。
長い指が、杖の感触を確かめるように撫でる。
闇の森が静まり返る。腐った木の匂いだけが残っている。
月は、最後まで姿を見せなかった。




