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第8節「命名」


翌日。


 誠一郎がノートを片手に病室にやってきた。昨日の疲れが嘘のように、目が輝いている。


「考えてきた。名前」


 ベッドの上で赤ん坊を抱いている清美に、ノートを広げて見せた。


「大翔、蓮、陽太——どうだ?」


 三つの名前が、誠一郎の几帳面な字で並んでいる。それぞれの画数と意味まで調べてある。ノートの隅にはボツになった候補がいくつも消してあった。昨夜、寝ずに考えたのだろう。この人らしい。


「悪くないけど......」


 清美は首を傾げた。どれもいい名前だ。いい名前だけど——ぴんとこない。


「大翔は飛翔の翔で、大きく羽ばたくって意味。蓮は泥の中から咲く花で——」


「うん。わかる。どれも素敵よ」


「でも、顔が『でも』って言ってる」


 誠一郎が苦笑した。わかっている。この人はこういうところに敏い。


 清美は腕の中の赤ん坊を見つめた。


 小さい。昨日と同じくらい小さい。しわくちゃの顔。握りしめた拳。時折、ふにゃっと口を動かす。おっぱいの夢でも見ているのだろうか。


 この子には宿命がある。


 十五年後、旅立つ運命がある。世界を救うために。仲間を集めるために。どんな苦難が待っているか、清美にはわからない。アマルも詳しくは教えてくれなかった。


 だからこそ——強い名前をつけてあげたい。どんな困難にも負けない、広くて大きな名前を。


 ふと、窓の外を見た。


 五月の空が広がっている。昨日と同じ、青くて高い空。雲が一つもない。どこまでも続く青。病室の小さな窓が、まるで額縁のようにその青を切り取っていた。


 海みたいだ、と清美は思った。


 空の青は海の青に似ている。果てがない。どこまでも広がっている。この子の人生も、そうあってほしい。どこまでも広く、どこまでも高く。


「海斗——カイト」


 口をついて出た。考えたわけではない。ただ、そう思った。


 誠一郎が顔を上げた。


「海斗?」


「海のように広く、空のように高く。どんな運命が待っていても——乗り越えられるように」


 誠一郎はノートを閉じた。三つの候補をあっさり引っ込めて、赤ん坊の顔を覗き込んだ。


「海斗。——カイト」


 声に出して、もう一度。


「いい名前だな」


 笑った。清美も笑った。


 赤ん坊が、ふにゃ、と声を出した。泣き声ではない。まるで返事をしたみたいに。


「気に入ったみたいよ」


「そりゃよかった。本人の賛成が一番大事だからな」


 誠一郎が赤ん坊の小さな手に指を添えた。きゅっと握り返される。


「よろしくな、カイト」


 清美は我が子を抱きしめた。


 温かい。小さい。壊れそうなほど柔らかい。この腕の中の命が、いつか世界の命運を背負う。


 ——でも、今はまだ。


 今はただの赤ん坊だ。おっぱいを飲んで、泣いて、眠る。それだけでいい。


『よろしくね、カイト。十五年後、あなたは旅立つ。でも今日から十五年間——あなたは私の子供よ。精一杯、愛してあげる』


 五月の光が病室に差し込んでいた。


 橘海斗。


 それがこの子の名前だ。


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