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第7節「均衡量りの儀式」


——これは、三週間前の話だ。


 虚空。


 時間の存在しない空間。上もなければ下もない。光もなければ闇もない。あるのはただ、白い霧のような静寂だけだ。


 その中心に、白い絹で覆われた寝台があった。


 寝台の上に、一つの体が横たわっている。


 預言者アンセルム。


 性別のわからない顔立ち。白い長髪が絹の上に広がり、寝台と溶け合うように白い。閉じた瞳は——一度も開かれたことがない。生まれてから、ただの一度も。


 三使徒の一柱。終焉の歌い手。


 普段は眠っている。体が弱い。百三十億年の大半を、この虚空の寝台で過ごしてきた。目覚めるのは千年に一度——均衡量りの儀式の時だけだ。


 その時が来た。


 寝台の傍らに、二つの影が立っていた。


 執行者デイブ。観察者ルー。


 二人とも、いつものふざけた様子はない。デイブは腕を組み、口を引き結んでいる。ルーはフードの下で息を殺している。この場所ではふざけられない。虚空にはそういう力がある。ここは世界の中心だ。全ての始まりと、全ての終わりが重なる場所。


 千年に一度の儀式。百三十億年で、約一千三百万回行われてきた。そのほとんどは何事もなく終わる。アンセルムが起き上がり、「均衡に異常なし」と一言告げ、再び眠りに落ちる。それだけだ。


 稀に——ごく稀に、警告が発せられることがある。「大盟約に揺らぎあり」と。その場合も、アンセルムは上半身を起こすだけだ。起き上がって、一言告げて、眠る。それ以上のことは、記録にない。


 低い振動が虚空に響いた。


 寝台が微かに震える。白い絹が波打つ。


 アンセルムの上半身が、ゆっくりと起き上がった。


 いつもと同じ。ここまではいつもと同じだ。デイブとルーは息を殺して見守った。


 ——だが。


 アンセルムは、足を寝台から降ろした。


 デイブの目が見開かれた。


 ルーの喉が、ひゅっと鳴った。


 あり得ない。記録にない。一千三百万回の儀式の中で、アンセルムが足を降ろしたことは——一度もない。立ち上がることを想定した記録自体が存在しない。


 白い足が虚空に触れた。音はしない。ただ、空間そのものが震えた。遠くで何かが軋む音。世界の骨格が、預言者の動きに反応していた。


 アンセルムは寝台の縁に腰かけた。白い髪が重力のない空間でゆるやかに揺れている。


 そして——歌い始めた。


 声。


 低くもなく、高くもない。男でも女でもない。ただ透き通った、この世のものとは思えない声。


 ♪ わが子よ、安らかに眠るがいい


 虚空が震えた。白い霧が波紋のように広がる。


 ♪ 永きときを経て、傷つきしからだを癒すがいい


 デイブが一歩後退った。歌声が体を貫く。骨の芯まで響く。


 ♪ 時の環をこえしうつし世で


 ♪ 傷数えることは、もういらぬ


 ルーの目から、涙がこぼれた。理由はわからない。ただ、涙が出た。歌がそうさせた。


 ♪ 混ざりし現世を無にうつし


 ♪ その深みで、眠るがいい


 終焉の詩篇。第一節。


 記録にはある。だが実際に歌われたことは——百三十億年の歴史の中で、ほんの数回しかない。その数回は全て、世界が滅びの淵に立った時だ。


 歌声が虚空に染み渡っていく。この空間だけではない。全ての世界に——放牧民の草原に、精霊たちの森に、ドワーフの鍛冶場に、古代魔法の塔に——響き渡った。聞こえるのはごく一部の者だけだ。だが聞こえた者は皆、手を止め、空を仰いだ。理由もわからず、涙を流した者もいた。


 アンセルムの体が、淡く光った。


 ルーが息を呑んだ。それが何を意味するか、知っていたから。


 終焉が近づくほど、アンセルムは実体化する。体が弱く、眠ってばかりいた存在が——終焉の接近とともに力を得る。皮肉な構造だ。世界が滅びに向かう時、預言者は最も美しく輝く。


 歌が止んだ。


 虚空に沈黙が戻った。だが、さっきまでとは違う沈黙だ。何かが変わった。空気の質が変わった。


 アンセルムが、口を開いた。歌声ではなく、言葉として。


『十三回目の警告が刻まれた』


 声は静かだった。感情がない。あるいは——感情を押し殺しているのかもしれない。


『大盟約の終焉が、宣言された』


 デイブが拳を握った。ルーは微動だにしない。


『十二番目の末裔が、間もなく生まれる。人間界に』


「十二番目——?」


 ルーが声を漏らした。困惑の色が浮かんでいる。末裔は通常十一人。十二という数は——記録にはあるが、特別な意味を持つ。


「特別な末裔......? どういう意味だ。何が特別なんだ」


 アンセルムは答えなかった。閉じた瞳のまま、虚空の彼方を——見えないはずの目で見つめていた。


『問うな。ただ見届けよ』


 そしてアンセルムは、デイブに顔を向けた。閉じた瞳が、それでもなお、デイブを「見ている」ことがわかった。


『デイブ。呪いに気をつけよ。呪われてはならぬ』


 デイブは黙って頷いた。その時は真剣な顔をしていた。三週間後にタピオカとクレープでその警告を台無しにするとは、この時の誰も——アンセルム自身でさえ——予想していなかった。


 アンセルムはしばらく天空を見つめていた。口ずさむように唇が動いている。だが声は聞こえない。まるで歌の続きを思い出そうとしているかのように。


 終焉の詩篇には、三つの節がある。今歌われたのは第一節。第二節と第三節は——まだ時が来ていない。


 やがてアンセルムは、ゆっくりと目を閉じた。——もともと閉じているのだが、意識が沈んでいくのがわかった。体の光が消える。白い髪が力なく垂れる。


 アンセルムは横たわり、再び眠りに落ちた。


 寝台の周りに、静寂が戻った。


 ルーは長い息を吐いた。


「......終焉の詩篇」


 自分に言い聞かせるように呟いた。


「記録にある。確かにある。だが——実際に聞いたのは、初めてだ」


 あの歌声がまだ耳に残っている。透き通った、この世のものとは思えない声。あれが終焉の始まりを告げる歌だとは——美しすぎる。


 デイブは何も言わなかった。腕を組んだまま、眠りについたアンセルムを見つめていた。その横顔に、いつもの軽薄さはなかった。


 虚空は静かだ。


 だがアンセルムが次に目覚めるのは、千年後ではない。


 それほど時をおかないだろう。


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