第6節「誕生」
砧公園から帰って、数時間後のことだった。
予定日より二週間早い。夕食の支度をしようとキッチンに立った瞬間、腹の底に鈍い痛みが走った。
『——え?』
清美は流し台を掴んだ。次の波がすぐに来た。間隔が短い。
『嘘でしょ。まだ早いって。まだ——』
スマホを掴む。手が震えて画面がうまく押せない。誠一郎のアイコンを三回タップし損ねた。四回目でようやく繋がった。
「せい、いちろう——」
「どうした?」
「たぶん、来た」
電話の向こうで椅子が倒れる音がした。
タクシーの中で、清美は呼吸に集中していた。吸って、吐いて。助産師に教わった通り。痛みが波のように押し寄せる。引いて、また来る。タクシーの運転手が信号待ちのたびにおろおろとバックミラーを覗いてくる。
「お客さん、大丈夫ですか。救急車呼びましょうか」
「大丈夫......です。病院まで、お願い......します」
大丈夫ではなかった。が、ここで救急車を待つ余裕もない。
ふと、スマホが震えた。
メールの通知。Amazonから。「ご注文の商品が発送されました」。
送り主の名前は——「K.Kanzaki」。
痛みの合間に、清美はふっと笑った。
「ありがと......アマル......」
「え? 何?」
隣で誠一郎が不安そうな顔をしている。清美は首を振った。
「ううん。なんでもない」
上用賀の総合病院に着いた。車椅子に乗せられ、分娩室に運ばれた。
そこからの記憶は、断片的だ。
天井の蛍光灯。助産師の声。「はい、深く吸って——」。誠一郎の手を握った。握り返してくれた。その手が汗ばんでいた。清美の手か、誠一郎の手か、もうわからない。
痛い。痛い。息ができない。
出産は命がけだと聞いていた。本で読んだ。助産師にも言われた。でも——読むのと体験するのは違う。こんなにも違う。体が引き裂かれるかと思った。
「いきんで! もう少し!」
もう少しが永遠に感じた。
——そして。
産声が、響いた。
力強い。こんなに小さな体から、こんなに大きな声が出るのか。
「元気な男の子ですよ! 三千二百四十五グラム」
助産師が赤ん坊を清美の胸に乗せた。
小さい。
温かい。
生きている。
十本の指。十本の足の趾。ちゃんとある。しわくちゃの顔。ぎゅっと閉じた目。握りしめた拳。全部、全部——愛おしい。
涙が止まらなかった。
残業を切り上げて飛んできた誠一郎が、分娩室の扉を開けた。ネクタイが曲がっている。髪が乱れている。走ってきたのだ。
赤ん坊を見た瞬間、誠一郎の目が潤んだ。
「本当に......生まれたんだな。俺たちの、子供が」
誠一郎の声が震えていた。大きな手が、おそるおそる赤ん坊の頬に触れた。その指先が震えている。
清美は微笑んだ。泣きながら。
この人は何も知らない。この子の宿命も、十五年後の旅立ちも。でも——この瞬間の涙は本物だ。この愛情は本物だ。それだけは確かだ。
——病室に移された後。
夕暮れの光が窓から差し込んでいた。橙色。五月の夕陽。
誠一郎は廊下でご両親に電話をかけている。「男の子です、はい、母子ともに健康で」。嬉しそうな声が漏れ聞こえる。
清美は赤ん坊を抱いたまま、窓の外を見た。
駐車場の片隅。
白いポメラニアンがいた。
首輪のない、小さな犬。——でも清美には、その瞳が見えた。あの底知れない黒い目。
声が、頭に響いた。
『見届けたぞ。元気な子だ』
清美は唇だけで「ありがとう」と言った。声を出したら泣いてしまいそうだった。
『この子は大丈夫だ。強い子だ。——お前の子だからな』
ポメラニアンの尻尾が、ぱたぱたと揺れた。
『これから十五年。この子を頼んだぞ』
清美は小さく頷いた。腕の中の赤ん坊が、すう、すう、と眠っている。この子の人生で一番最初の眠り。
ポメラニアンの姿が、ふっと消えた。夕暮れの光の中に溶けるように。
廊下から誠一郎が戻ってきた。
「おふくろが泣いてた。親父も泣いてた。二人とも来週来るってさ」
「そう。......嬉しいわね」
「名前、考えなきゃな」
「うん」
五月の夕暮れが、病室を橙色に染めていた。
清美は我が子を抱きしめて、静かに目を閉じた。
小さな命の鼓動が、腕の中で脈打っている。
とくん。とくん。とくん。
その三つ目のリズムが、ほんの少しだけ——間を空けた気がした。




