第5節「二人の使徒」
同じ頃——渋谷。
スクランブル交差点を、二つの影が歩いていた。
一人は小柄な女。黒いパーカーにジーンズ。フードを目深に被り、背中を丸めている。見た目は二十代前半だが、実際は数万年を生きている。観察者ルー。
もう一人は長身の男。百九十センチ近い体躯に黒いコートを羽織り、同じくフードを被っている。執行者デイブ。
二人は三使徒のうちの二柱だ。創造神アマルと破壊神モルスが定めた盟約を執行し、観察する者たち。数万年にわたって世界の均衡を見守ってきた、由緒正しき存在。
——のはずなのだが。
「デイブ」
「ん?」
「なんでお前、タピオカの列に並んでるんだ」
デイブは振り返った。手には整理券。コートのポケットからはスマホがはみ出している。その顔は、実に晴れやかだった。
「この店、今日オープンしたばかりなんだ。黒糖タピオカミルクティーの限定メニュー。インスタで話題になってる」
「知らん」
「俺はフォロワー三万人いるぞ。使徒だってSNSくらいやる。時代に乗り遅れてるぞ、ルー」
ルーはこめかみを押さえた。数万年の人生で、頭痛の九割はこの男が原因だ。
「いいか、くそデブ。よく聞け」
「デブじゃない。デイブだ。」
「十二番目の末裔がもうすぐ生まれる。その瞬間に立ち会わなければ、呪いがかかる。アンセルムがわざわざ警告しただろう」
「わかってる。わかってるって」
デイブは整理券をひらひらと振った。
「五分で済む。見ろ、もう三番目だ」
「お前の『五分』は信用できない。前も『五分で済む』と言って二時間かかった」
「あれはラーメン屋の行列が思ったより長かっただけだ」
「同じことだ!」
ルーの怒声が渋谷の雑踏に溶けた。行き交う人々は誰も振り返らない。東京という街は便利だ。どれだけ異様な二人組がいても、誰も気にしない。
十五分後。
デイブはタピオカミルクティーを手に入れた。太いストローでずずっと吸い上げ、満面の笑みを浮かべている。
「うまい。黒糖の甘さが絶妙だ」
「急げ。用賀まで——」
「写真撮っていいか」
「だめだ」
「インスタに上げたい。ハッシュタグは——」
「だめだと言ってる。歩け、くそデブ、甘えん坊野郎」
「ひどいな。二つも悪口を重ねなくていいだろう」
ルーに背中を押されながら、デイブは竹下通りに差し掛かった。ここを抜ければ明治通りに出られる。あとは南下して渋谷から用賀へ——
「あ」
デイブの足が止まった。
原宿の竹下通り。クレープ屋の看板が目に入ったらしい。「期間限定 プレミアムイチゴクレープ」。
「ルー」
「だめだ」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある。だめだ」
「期間限定だぞ。期間限定。この四文字の重さがわかるか」
「わからん。世界の命運より重い四文字はない」
「使徒生は一度きりだ。後悔しないように生きたい」
「使徒生ってなんだ。そんな言葉はない」
「今つくった」
デイブは既に列に並んでいた。話を聞いていない。ルーは天を仰いだ。五月の空が青い。こんなに青い空の下で、世界の命運に関わる使徒がクレープに並んでいる。
「......もういい。三分だぞ。三分で買え」
「任せろ」
八分かかった。
デイブはクレープを頬張りながら歩いている。イチゴクリームが唇の端についている。百九十センチの大男がクレープを食べている姿は、なかなかの迫力だった。
「うまい。生クリームの量が正義だ」
「走れ。食いながらでいいから走れ」
ルーが腕を引っ張った。二人は竹下通りを駆け抜け、明治通りを南下し、渋谷を突っ切った。デイブは走りながらクレープを食べるという離れ業をやってのけ、生クリームを三回こぼした。そのたびにルーの殺意が一段階上がった。
「お前と組んで何万年になるか知ってるか」
「知らん。数えてない」
「私もだ。数える気力がない」
用賀に着いたのは、それから四十分後だった。
住宅街の角を曲がった瞬間——ルーの足が止まった。
サイレンの音。
救急車ではない。病院の方角から聞こえる、新生児室の呼び出し音。それと混ざって——産声。微かだが、使徒の耳には届く。
ルーの顔から血の気が引いた。
「デイブ」
「......ああ」
「生まれた。もう——生まれてる」
デイブの手からクレープが落ちた。
アスファルトの上で、生クリームとイチゴが潰れた。それを見つめるデイブの目から、さっきまでの軽薄さが消えていた。
「嘘だろ......俺たち、間に合わなかった......?」
ルーは目を閉じた。
数万年分の記憶が巡る。盟約のルール。呪いの条件。アンセルムの警告——『呪いに気をつけよ。呪われてはならぬ』。
目を開けた。
「呪いが発動する」
「......なに?」
「末裔の誕生を見逃した執行者には、呪いがかかる」
ルーの声は淡々としていた。感情を殺している。そうしないと、この男を殴ってしまいそうだったから。
「お前は——末裔を直接殺す力を失う」
デイブが固まった。
直接殺す力。執行者にとって、それは存在意義そのものだ。末裔を排除し、盟約の更新を阻止する——そのための力を、たかがタピオカとクレープで失った。
黒糖タピオカミルクティー。プレミアムイチゴクレープ。合計千二百円。それが、数万年の力と引き換えになった。
「待て。待ってくれ。取り消せないのか」
「呪いに取り消しはない。お前が一番知ってるだろう」
デイブの顔が歪んだ。さっきまでクレープの生クリームをつけていた唇が、ぎりっと噛み締められている。
「......くそ」
デイブが拳を握った。コートの下で、指が白くなるほど。
ルーはそれ以上何も言わなかった。言っても仕方がない。終わったことだ。呪いは呪いだ。覆らない。
——だが。
ルーの胸に、小さな疼きが走った。
微かな——本当に微かな、針で刺したような痛み。一瞬だけ。すぐに消えた。気のせいかと思うほどの。
ルーはその痛みの意味に気づかなかった。
呪いは、観察者にもかかっていた。末裔の質問に答えざるを得ない——そんな呪いが。だがルーはそれを知らない。痛みが何だったのか、考えもしなかった。
五月の夕暮れ。住宅街は静かだった。
地面に落ちたクレープを、一羽のカラスがついばんでいた。




