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第4節「神託」


アマルが口を開いた。


『この子は——十五歳になると覚醒する』


「覚醒?」


『自分が何者か知り、旅立つことになる』


 旅立つ。


 まだ生まれてもいない子供が、十五年後に旅立つ。その言葉の意味を、清美は飲み込めなかった。


『旅立たなければ——世界は滅びに向かう』


 世界。滅び。


 言葉が大きすぎる。お腹の中で眠っているこの小さな命と、世界の滅びが繋がらない。


「......ちょっと待って」


 清美の声が震えた。さっきまでの交渉の時とは違う。


「この子一人の肩に、そんな重荷を背負わせるの?」


『一人ではない。仲間がいる』


「仲間?」


『この子と同じように、特別な宿命を持つ者たちだ。世界中に散らばっている。その者たちを集め、力を合わせなければならない』


「でも——」


『だが、中心となるのはこの子だ』


 清美は唇を噛んだ。


 お腹の子が動いた。ぐるん、と大きく。まるで「聞こえてるよ」と言うように。


「なんでうちの子なの」


 声が裏返った。目の奥がじんと熱くなる。


「普通に生まれて、普通に育って、普通に幸せになる——そんな人生じゃだめなの? 運動会で一等賞取って、反抗期で口きかなくなって、大学受験で泣いて——そういう、普通の十五年じゃだめなの?」


 アマルは黙っていた。しばらく。


 やがて、静かに答えた。


『運命がこの子を選んだ。——いや、正確に言おう。お前の家系が、この子を特別にした』


「......家系?」


『神崎家には、我の血が流れている』


 清美の手が止まった。


『遠い昔、我は人間たちと盟約を結んだ。その時に力の一部を分けた。それが十二の家系に受け継がれた。神崎家はそのひとつだ。——お前の血が、この子を末裔にしたのだ』


 私の、血。


 つまり——この子が宿命を背負うのは、清美のせいだということだ。神崎の血を継いだから。この体から生まれるから。


 お腹に手を当てた。温かい。さっきまでと同じ温もりのはずなのに、今はそれが切なかった。


 目の奥が熱くなった。視界が滲む。ごめんね。まだ名前もつけてないのに。ごめんね。


 アマルは何も言わなかった。清美が泣き止むまで、じっと待っていた。ポメラニアンの黒い目が、ただ静かに清美を見つめていた。


 長い時間が流れた。


 どれくらい経ったのかわからない。時間が止まっているのだから、測りようもない。


 清美は深く息を吐いた。目元を手の甲で拭う。


「——十五年間は、幸せにしてあげたい」


 声は、もう震えていなかった。涙の跡が頬に残っている。でも目は据わっていた。祖母きよと同じ目だ。


「この子が自分で選べるようになるその日まで。精一杯、愛してあげたい。泣いた分の何倍も、笑わせてあげたい」


 アマルが頷いた。小さく、だが深く。


『ひとつ、約束してほしいことがある』


「なに」


『この子に宿命のことは言うな。十五歳までは——ただの子供として生きる権利がある』


 清美は頷いた。


『誰にも言うな。誠一郎にも。お前の母にも』


「......誠一郎にも?」


『誰にも、だ。知る者が増えれば、危険が増す。この子を守るために——黙っていてくれ』


 誠一郎に嘘をつく。毎日一緒にいる夫に、秘密を抱えて生きる。この子の運動会でビデオを回しながら、あと何年と数えて生きる。


 重い。でも——この子を守るためなら。


「わかった」


 静かに答えた。


 風が、微かに動いた。時間が戻り始める気配だ。


「ねえ、アマル」


『なんだ』


「この子は、帰ってくるの?」


 アマルの尻尾が止まった。


『無事、背負った使命を果たせば——お前のもとに戻ってくるだろう』


「果たせなければ?」


 アマルは何も言わなかった。


 いや——言えなかったのだ。その黒い瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。百三十億年を生きた神が、たった一つの問いに答えられない。それだけで十分だった。果たせなかった時、この世界がどうなるか。アマルはそれを知っている。知っているから、言えない。


 清美はまっすぐアマルを見据えた。


「......わかった。聞かない」


 風が少し強くなった。木の葉がかすかに揺れ始めている。時間が戻る。もう、あまり猶予がない。


『また会おう。その時が来たら』


「ありがとう、アマル。色々と」


 清美は立ち上がりかけて——振り返った。


「あっ。サイベックスよろしくね!」


『ああ。忘れとらん』


「遅延もだめよ! だってDSの時、届くの一週間遅れたじゃない」


『あれは配送業者の問題だ。我のせいではない』


「はいはい」


 世界が動き出した。


 風が吹く。木の葉がさらさらと鳴る。子供たちの歓声が戻ってきた。噴水の水が弧を描いて落ちる。


 ベンチの前に、ポメラニアンの姿はもうなかった。


 清美はしばらくその場に立っていた。


 五月の風が髪を揺らす。お腹の子が、とくん、と動いた。


『大丈夫。十五年間——絶対に、守るから』


 空を見上げた。青く、高く、どこまでも広い空だった。


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