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第3節「等価交換」


宿命。


 その言葉が胸に刺さったまま、清美は口を開いた。


「ちょっと待って!」


『......何だ』


「それ、聞きたくないかも!」


 アマルが固まった。ポメラニアンの顔に「は?」と書いてある。


『待てとは何だ。神の神託なんだが』


「えーー」


 清美は腕を組んだ。お腹が邪魔で組みにくい。仕方なく手を膝の上に置いた。


「じゃあ、なんかくれたら考える」


 沈黙。


 アマルの尻尾がぴたりと止まった。公園の静寂がさらに深くなった気がした。


『......お前、二十二年前も同じことを言ったな』


「言った」


『あの時はまだ幼かったから許したのだが』


「だってアマルに比べたら、私まだ子供。子供!」


『三十二歳だろう。子供ではない』


「百三十億歳に比べたら誤差でしょ」


『............』


 アマルが天を仰いだ。ポメラニアンが天を仰ぐと、なかなかにシュールだ。


 二十二年前の夏。宮崎の祖母きよの家で、清美は白猫の姿のアマルと出会った。


 十歳の少女は神の言葉を聞いて——こう言った。


「なんかくれたら聞いてあげる」


 神が人間に交渉を持ちかけられた。百三十億年の歴史の中で、初めてのことだったらしい。


『お前は十歳にして、神に交渉を持ちかけた人類初の子供だった』


 アマルの声に疲労がにじむ。


『あの時の要求を覚えているか』


「ニンテンドーDS」


『そうだ。しかも「ヤマダデンキで買って」と言われた』


 清美は笑いを堪えた。この話、何度聞いても面白い。


『我はな、山田という人物が営む電気屋を宮崎中探し回ったのだ』


「白猫の姿で?」


『そうだ。猫が電気屋を探して歩き回っている。人間たちは奇妙な目で見ていた。一度、保健所に捕まりかけた』


「神さまが保健所に」


『三日かかった。三日目にようやく、あれが人名ではなく店の名だと気づいた。我の三日を返してほしい』


 清美は涙が出るほど笑った。十歳の夏も同じように笑った。


「おばあちゃん、腹抱えて笑ってたでしょ」


『きよは笑いすぎて咳き込んでいた。「あんた神さまのくせにヤマダデンキも知らんのかい」と。あの老婆は我を見て最初に「あんた、よう来たね。お茶飲むかい」と言った人間だ。神に茶を勧めた最初の人間だった』


「おばあちゃんらしいわ」


『きよは肝が据わっていた。招きの印の意味を正確に知り、それでいて恐れなかった。あの血は——お前にも流れている』


 祖母きよ。五年前に亡くなった。最後まで背筋の伸びた、肝の据わった人だった。亡くなる少し前、清美の手を握ってこう言った。「いつか来る日に、逃げたらあかんよ」。その意味が、今ならわかる。


 ——思い出に浸っている場合ではない。アマルが続けた。


『それで店に入ったまではいい。問題はそこからだ』


「ポイントカードの話?」


『店員に「ポイントカードはお持ちですか」と聞かれた。我は答えた。「我は神だ。ポイントなど持っていない」と』


「それで?」


『店員が固まった。三十秒ほど。それから隣の店員にひそひそと何か言っていた。多分「変な客が来た」と言っていたのだろう。我も気まずくなって逃げた。——金は後で置いてきた』


「レジに白猫がお金置いて帰ったの?」


『きちんと金額の分だけ置いた。足りなかったらいかんからな。釣りは寄付ということにした』


 清美は声を出して笑った。時間が止まった公園で、笑い声だけが響く。ポメラニアンの顔が不服そうに歪んだ。


『笑うな。あれは我の人間界における最大の屈辱だ』


「ごめん、ごめん。でも——ありがとね。ちゃんと買ってきてくれて。あのDS、大事に使ったのよ」


『......ふん』


 アマルが顔を背けた。照れているのか怒っているのか。ポメラニアンの耳がぺたんと倒れている。多分、両方だ。


 清美は息を整えた。笑いすぎてお腹が張る。妊婦には笑いすぎも毒だ。


 さて。本題だ。


「で、今回の条件ね」


『またか。今度は何だ。月か。月なら調整がきく』


「月はいらない。置く場所ないし」


『では何だ』


「サイベックスのミオス。ローズゴールドのフレーム。座面はピオニーレッド」


『何語だ、それは』


「ベビーカーよ。九万八千七百八十円」


 アマルが絶句した。ポメラニアンの口がぽかんと開いている。


『......九万? ベビーカーとは乳児を運ぶ車だろう。そんなにするのか』


「いいやつはね。走行性が違うの。片手で折りたためるし、シートは三段階リクライニングだし」


『我にはその違いがわからんが......ならば永遠の命はどうだ。莫大な富でもいい。不老不死とか』


「いらない」


『......なぜ。不老不死だぞ?』


「実用的じゃないもの。不老不死になったらママ友の輪に入れないでしょ。四十年経っても三十二歳の顔って、怖がられるわよ」


『......我には人間の価値観がわからん時がある』


「ベビーカーがいい。サイベックスがいい。ピオニーレッドがいい。これは譲れない」


 三回繰り返した。交渉の基本だ。大事なことは三回言う。


 アマルは長い溜息をついた。百三十億年を生きた存在の溜息は、公園の空気を微かに震わせた。


『わかった。で、どこで手に入る』


「アマゾン」


『——南米の熱帯地域か? あの密林にベビーカーが生えているとは知らなかった』


 清美は白い目でアマルを見た。


「生えてない。ベビーカーは密林に生えてない」


『ベビーカーの木、というものがあるのかと思った。人間は何でも栽培するからな』


「しない。栽培しない。アマゾンっていうのはインターネットの通販サイトよ。スマホで注文すれば届くの」


『......すまほ?』


「これ」


 清美がスマホを取り出した。アマルがポメラニアンの鼻先をぐいっと近づける。画面に鼻の跡がついた。


「汚い。鼻つけないで」


『すまない。この姿は鼻が前に出る構造なのだ』


「知ってる。犬ってそういうもの」


『犬ではない。神だ』


「見た目は犬」


『............』


 清美はスマホの操作を教え始めた。時間停止中の公園で、妊婦が神にネットショッピングを教えている。宇宙の歴史上、最もシュールな光景かもしれない。


「まずアカウントを作って——」


『あかうんと。口座のようなものか』


「まあ、そんな感じ。名前と、メールアドレスと、パスワードを入れるの」


『めーるあどれす? ぱすわーど? お前の言葉は半分わからんぞ』


「パスワードは合言葉。自分だけが知ってる文字列」


 アマルはしばらく考え込んだ。


『「AMAL130OKUNEN」でどうだ』


「却下。年齢をパスワードにしないで」


『我の年齢を知る者はこの世界に五人もおらんぞ。安全だろう』


「そういう問題じゃない。あと多分長すぎてエラーになる」


 結局、パスワードの設定だけで十分近くかかった。アマルは「記号を含めろとは何事だ」「大文字と小文字を区別するとは差別ではないか」と憤慨し、清美は「神さまがパスワードにキレてる」という状況の荒唐無稽さに何度も吹き出した。


「はい、できた。次は商品を検索——」


『けんさく』


「探すこと。ここに『サイベックス ミオス』って入れて」


『肉球で打てると思うか』


「......あ」


 盲点だった。ポメラニアンの手でスマホは操作できない。


 結局、清美が全て操作した。アマルは隣で画面を覗き込みながら、しきりに感心していた。


『これだけの品物が並んでおるのか。人間の欲は果てしないな』


「それ、褒めてるの?」


『半分は』


 ようやく注文が完了した。


「はい、おしまい。三日で届くって」


『ぽちっと、で終わるのか。便利な世界になったものだ』


「でしょ。DSの時みたいに三日も走り回らなくて済むのよ」


『あれは二度とごめんだ。保健所だけは勘弁してほしい』


 アマルは満足げに頷いた。清美もつい笑顔になる。


 ——だが。


 その笑顔のまま、アマルの目が変わった。


 尻尾の揺れが止まる。黒い瞳が、すっと深くなった。百三十億年の重みが、その小さな体ににじむ。


『さて。約束通り、聞いてもらうぞ』


 清美の笑顔が消えた。そうだ。これは交渉だった。対価を受け取った以上、こちらも約束を果たさなければならない。


 ベンチに座り直す。背筋を伸ばした。お腹の子が静かに動いた。


『頼みがある』


「......聞くわ」


『この子を十五年間、健やかに育ててほしい』


 アマルの声は穏やかだった。だが、その一言一言が、石を積むように重かった。


『愛情を注ぎ、守り——普通の子供として育ててほしい』


 普通の子供として。


 その言い方が引っかかった。「普通の」と、わざわざ言った。つまりこの子は——普通ではない、ということだ。


 風が止んだままの公園。動かない噴水。静止した世界の中で、清美はお腹に手を当てたまま、黙ってアマルを見つめた。


 お腹の子が、とくん、と一度だけ動いた。


 ポメラニアンの目に、あの悲しみが戻っていた。慈しみと、悲しみ。それは——これから告げることの重さを、知っている者の目だった。


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