第8節「旅立ち」
夕方。草原が赤く染まっていた。
二つの太陽が傾いている。大きい方が地平線に触れかけていて、小さい方はまだ空の真ん中。赤と橙のグラデーションが草原を塗り替えている。
この世界で一番好きな時間帯だった。
野営地の外れに、クランの全員が集まっていた。昨日の養子縁組と同じ場所。だが今日は白い円も正装もない。ただ------見送りのために。
俺とエリカとゼファーが、皆の前に立っていた。
ゼファーの手には静寂の弓。古びた木の弓。弦のない弓。
タクファーが一歩前に出た。父と向き合う。
「父上。気をつけて」
短い言葉だった。だが声が震えている。昨日の養子縁組の時より、ずっと。
ゼファーが頷いた。
「クランを頼む」
「はい」
タクファーが右手を胸に当てた。草原の民の礼。ゼファーも同じ礼を返した。長から長へ。父から息子へ。
ソクタンがエリカの手を握った。
「体に気をつけてね。ちゃんと食べるのよ」
「ソクタンさん......ありがとう、本当に」
「またおいで。今度はゆっくりお茶しましょう」
エリカが頷いた。唇を噛んでいる。泣くまい、と堪えている顔。
------そして。
タクシマルが駆けてきた。
全速力。短い足をばたばたと動かして。顔がもうくしゃくしゃだ。
「カイト兄ちゃん! エリカねーちゃん!」
俺は膝をついた。タクシマルと目線を合わせる。
「また会える?」
小さな声だった。鼻が赤い。目に涙が溜まっている。
三歳の子供に嘘はつけない。
「ああ、約束だ」
嘘じゃない。絶対に戻ってくる。この草原に。
タクシマルの顔がぐしゃっと歪んだ。泣くのか------と思ったら、ぐっと唇を引き結んだ。
「嘘ついたら------千本の矢だからね!」
------千本の矢。
三歳児の精一杯の脅し。百でも十でもなく、千。大きい数字を使えば怖いと思ったのだろう。
笑った。笑いながら、目頭が熱くなった。
「分かってるって」
タクシマルの頭を撫でた。柔らかい髪。草の匂い。
「お前も強くなれよ。次に会う時は------俺より背が高くなってるかもな」
「なるよ! 絶対なる!」
タクシマルが泣き笑いの顔で頷いた。涙がぽろぽろ落ちているのに、笑っている。子供は強い。大人よりずっと。
エリカがしゃがんでタクシマルを抱きしめた。
「タクシマル。お姉ちゃん、いっぱい勉強してくるからね」
「べんきょう?」
「うん。いっぱい賢くなって帰ってくるの」
「ぼくもべんきょうする!」
「えらい」
ソクタンがタクシマルを受け取った。抱き上げる。タクシマルはソクタンの肩から手を振った。まだ泣いている。
------さあ。
ゼファーが前に出た。
静寂の弓を構える。弦のない弓を、射る姿勢で持ち上げた。天に向けて。
夕日が弓を赤く染めた。
「旅人よ風を切り進め」
ゼファーの声が、草原に響いた。
------弓が光った。
俺は目を見開いた。覚醒の時と同じ光。だが色が違う。銀色だ。冷たく、鋭く、美しい光。
光が弓全体を包んだ。亀裂が消えていく。欠けた先端が蘇る。朽ちた木肌が滑らかに変わる。そして------弦が現れた。光そのもので編まれたような、銀色の弦。
光が収まった。
ゼファーの手の中にあったのは------別物だった。
古びた弓はどこにもない。代わりに、白銀の弓が佇んでいた。美しい曲線。柄には新たな文字が浮かんでいる。光を受けて、文字が呼吸するように明滅していた。
「名前が変わってる......」
エリカが呟いた。めがねをかけていないのに読めたのか------いや、文字が光っているから肉眼でも見える。
「千射弓」
千の矢を射る弓。
タクシマルの「千本の矢」が頭をよぎった。偶然だろうか。偶然にしては、出来すぎている。
『あいつの約束を、弓が覚えてるみたいだ------』
ゼファーが弓を見つめていた。弦に指をかけ、軽く引く。ぴん、と澄んだ音が鳴った。洞窟の中で眠り続けた弓が、千年ぶりに歌った音だ。
その目に、深い感慨があった。
光が------足元から湧き上がった。
転移の光だ。俺たちの足元を覆うように、銀色の光が広がっていく。
『始まった------』
振り返った。最後に見たかった。
タクシマルが手を振っていた。ぶんぶんと。泣きながら。
ソクタンが微笑んでいた。片手でタクシマルを抱き、もう片方の手を振っている。
タクファーが腕を組んで立っていた。泣いてはいない。だがその目が赤い。
クランの仲間たちが手を振っていた。声が聞こえる。「気をつけて」「また来い」「風と共に」------たくさんの声が重なって、もう聞き分けられない。
光が強くなる。景色がぼやけていく。
『この草原のことを------俺は絶対に忘れない』
半年前、何もわからないままこの世界に来た。言葉も通じなかった。文化も違った。何もかもが初めてだった。
でも------家族ができた。仲間ができた。居場所ができた。
光に包まれる。足が地面を離れた感覚。浮遊感。
最後に見えたのは------夕日に染まる草原と、手を振る小さな影。
ありがとう。
光が、全てを白く塗り替えた。




