第6節「養子縁組」
翌日。空は晴れていた。
雲ひとつない青空。風が穏やかに吹いている。まるでこの日を祝っているような天気だった。
野営地の中央に、円が作られていた。
地面に白い石灰で描かれた大きな円。その周りをクランの全員が囲んでいる。老人も子供も、全員が正装だった。普段の革鎧や作業着ではなく、刺繍が施された祭り用の衣装。色とりどりの布が風にはためいている。
円の中心に、長老たちが立っていた。五人。全員が白髪で、顔に深い皺が刻まれている。手にはそれぞれ、聖油の入った小さな壺を持っていた。
俺とエリカは円の外に立たされていた。
タクファーが近づいてきた。彼も正装だ。いつもの気さくな顔が、今日は引き締まっている。
「緊張するか?」
「......ちょっとだけ」
嘘だ。かなり緊張している。
隣のエリカはもっと酷い。顔が真っ白だ。手が小刻みに震えている。
「エリカ、大丈夫か」
「だ、大丈夫。ぜんぜん大丈夫」
大丈夫じゃない声だった。
タクファーが苦笑した。
「難しいことは何もない。膝をついて、長老の言葉を聞いていればいい。言葉がわからなくても構わない」
「わからないのか?」
「古い言葉だからな。わしも半分くらいしかわからん」
長の息子がそれでいいのか。
ソクタンがエリカの手を取った。ぎゅっと握る。
「大丈夫よ。私の時も緊張で倒れそうだったけど------なんとかなったから」
「ソクタンさんも養子縁組を?」
「嫁入りの儀式よ。ほぼ同じ。長老が祝詞を唱えて、聖油を塗って、終わり」
「意外とシンプルなんですね」
「草原の民は質素だからね。大事なのは形じゃない。心だよ」
ソクタンがにっと笑った。エリカの顔に少し血の気が戻る。
長老のひとりが杖を地面に打ちつけた。コン、と乾いた音が響く。
始まりの合図だ。
俺とエリカは円の中に入った。
中央まで歩く。全員の視線が集まっている。百人の目。草原の風。頭上の青い空。
膝をついた。地面が冷たい。草の匂いが鼻をくすぐる。
隣でエリカも膝をついた。ちらりと横を見ると、目を閉じて唇をきゅっと結んでいる。
『......こいつ、本気で緊張してるな』
長老たちが祝詞を唱え始めた。
古い言葉。意味はわからない。だが------声の響きが胸に染みた。低い声が重なり合い、うねるように空に昇っていく。何百年も唱え続けられてきた言葉。その重みが、音だけで伝わってくる。
風が止んだ。
祝詞の声だけが、草原に響いていた。
どれくらい経っただろう。長かったような、一瞬だったような。
祝詞が止んだ。
静寂。
タクファーとソクタンが円の中に入ってきた。二人の手には、小さな壺。聖油だ。
タクファーが俺の前に立った。ソクタンがエリカの前に立った。
タクファーの指が壺に入り、聖油をすくった。琥珀色の油。甘い香りがした。蜂蜜に似ているが、もっと深い。
タクファーの指が、俺の額に触れた。
------温かかった。
聖油の温度じゃない。タクファーの指の温度だ。
額に十字を切るように、聖油が塗られた。
隣では、ソクタンがエリカの額に同じことをしていた。
タクファーが口を開いた。
「今日よりお前たちは------風の草原クランの一員だ」
ソクタンが続けた。
「我が家族として迎え入れる。風と共に、草原と共に」
------終わった。
それだけだった。
祝詞も、聖油も、言葉も。全部で十分もかからなかっただろう。質素だ。派手な演出はない。光も音楽もない。
だけど------胸がいっぱいだった。
額の聖油がじんわりと温かい。
『家族が増えた......異世界で、家族ができた......』
不思議な気持ちだった。日本には両親がいる。ばあちゃんもいる。それとは別に------ここにも家族がいる。血は繋がっていない。住む世界すら違う。なのに、家族だ。
『悪くない------いや、悪くないどころじゃない』
目頭が熱くなった。泣くな。泣くなよ。
隣を見た。エリカは------もう泣いていた。静かに、ぼろぼろと涙を流している。
「エリカ......」
「うるさい......泣いてない......」
泣いてるだろ。盛大に。
その時だった。
「カイト兄ちゃん! エリカねーちゃん!」
小さな弾丸が突っ込んできた。タクシマル。全速力で駆けてきて、俺とエリカの間に飛び込んだ。
「本当の兄ちゃんと姉ちゃんになったんだ!」
三歳児の全力の笑顔。これに勝てる武器はこの世にない。
俺はタクシマルを抱き上げた。
「ああ。本当の兄ちゃんだ」
タクシマルがきゃっきゃと笑う。エリカがその頭を撫でた。涙で目が赤い。
「よろしくね、タクシマル」
タクシマルが両手を広げた。エリカに抱きついた。
「ねーちゃん、なんで泣いてるの?」
「嬉しいから」
「嬉しいのに泣くの?」
「泣くの」
タクシマルは不思議そうに首を傾げた。三歳にはまだわからないだろう。いつかわかる。嬉しくて泣く日が、お前にも来る。
クランの全員が拍手していた。
風が吹いた。草原を渡る、柔らかい風。




