第5節「別れの宴」
星の遺跡から戻ったゼファーは、一晩何も語らなかった。
テントに入り、ひとりで考えていたらしい。タクファーが食事を運んだが、ほとんど手をつけなかったという。
翌朝。
ゼファーがテントから出てきた。
「全員を集めろ」
短い一言だった。タクファーが頷き、野営地を走り回った。
朝日が草原を照らす中、風の草原クランの全員が集まった。子供から老人まで。ざっと百人ほど。皆、何事かと顔を見合わせている。
ゼファーが全員の前に立った。
背筋がまっすぐだった。いつもの長の姿。だが、纏っている空気が違う。覚醒したからだろうか。存在そのものが、一回り大きく見えた。
「わしは------末裔だった」
静まり返った。
風の音だけが聞こえる。
「詳しいことは省く。わしは世界を救う旅に出なければならない」
ざわめきが起きた。当然だ。いきなり長が「世界を救う」と言い出したのだ。
だが------ゼファーが手を上げると、静まった。一瞬で。この人が長である理由がわかる瞬間だった。
「クランを継ぐのは、タクファーだ」
タクファーが一歩前に出た。
「父上の決断を、尊重します」
声は落ち着いていた。だが拳が白くなるほど握りしめられている。
『泣きそうなのを堪えてるんだな......』
クランの仲間たちの反応は様々だった。泣いている者。唇を噛んでいる者。黙って空を見上げている者。
子供がひとり、母親の服を引っ張った。
「ゼファー様、どこ行くの?」
小さな声が、静寂に響いた。
ゼファーが膝をついた。子供と目線を合わせる。
「遠くへ行く。だが------必ず帰ってくる」
子供は泣きそうな顔で頷いた。
だが------誰も引き留めなかった。
長老のひとりが口を開いた。
「長の決断を尊重する------それが草原の掟だ」
別の長老が頷いた。
「風の神ゼフィロスが、お前を導くだろう」
ゼファーが深く頭を下げた。四十五年間、この草原で生きてきた男の、最後の礼だった。
その夜。送別の宴が開かれた。
焚き火が三つ。夜空に火の粉が舞い上がる。
肉が焼ける匂い。馬乳酒の甘い香り。どこかで誰かが歌っている。草原の民の歌。低い声が風に溶けていく。
俺は焚き火の近くに座っていた。手には馬乳酒の椀。半年前は飲めなかったこれが、今はうまい。
「カイト兄ちゃん!」
タクシマルが突進してきた。膝に飛び乗る。重い。三歳児の重さをなめてはいけない。
「もういっかい、あれやって!」
「あれって?」
「たかいたかい!」
「お前、さっき五回やっただろ」
「もういっかい!」
断れるわけがなかった。
タクシマルを高く持ち上げる。きゃあきゃあと笑い声が夜空に響く。無限の体力が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
「はい、十回目。これで最後な」
「えー!」
ソクタンが笑いながらタクシマルを回収していった。「この子ったら、カイトにべったりなんだから」
焚き火の向こうでは、クランの若い衆がゼファーを囲んで騒いでいた。馬乳酒を注ぎまくっている。ゼファーは苦笑しながらも、一杯ずつ受けていた。
やがて若い衆が別の焚き火に移動した後、ゼファーがこちらに来た。俺の隣にどかっと座る。
「飲みすぎたか?」
「わしを誰だと思っている。草原の男が馬乳酒で潰れるか」
少し酔っているな、この人。
ゼファーが空を見上げた。星が近い。手を伸ばせば届きそうだ。
「カイト」
「ん?」
「......礼を言う」
「何の」
「お前が来なければ------わしは一生、父の言葉の意味を知らないままだった」
ゼファーの横顔が焚き火に照らされていた。赤い光。穏やかな顔だった。
「俺は巻き込んだだけだろ」
「巻き込まれたのではない。導かれたのだ」
それは------俺じゃなくて、お前の親父さんにだろ。
言いかけて、やめた。今夜は素直に受け取っておこう。
「......どういたしまして」
ゼファーが、ふっと笑った。珍しい。この人が笑うと、十歳くらい若く見える。
『最後の夜だもんな......』
視線を移すと------エリカがソクタンの隣に座っていた。
二人は何やらこそこそと話している。エリカが身を乗り出し、ソクタンの耳元で何か囁いた。
ソクタンの目が丸くなった。
「実は------歴史の部屋で興味深いことを知ったの」
エリカの声が、風に乗ってかすかに聞こえた。
「この国を最初に作ったクランの長はね------女だったの」
ソクタンの目がさらに大きくなった。
「その女傑は、知恵で荒くれの男ども全てを従えた。それがこの国の始まりだったんですって」
沈黙。
そして------ソクタンが盛大に笑った。
「なんだ、男を従えるのは伝統なのか!」
二人が声を上げて笑っている。タクファーが怪訝そうにこちらを見たが、妻の笑い声に首を傾げるだけだった。
『知らぬが仏って、こういうことだな......』
焚き火がぱちりと爆ぜた。
火の粉が舞い上がる。夜空に溶けて消えていく。
歌が聞こえる。今度は女たちの歌だ。高い声が澄んだ夜空に響く。草原の風に乗って、どこまでも広がっていく。
酒を飲み、肉を食い、歌い、笑う。
こういう夜が、ずっと続けばいいのに------そう思った瞬間、それが叶わないことを思い出した。
明日からは、次のステップが始まる。
養子縁組の儀式。そして------旅立ち。
椀の中の馬乳酒を飲み干した。
ほんの少しだけ、苦かった。




