第4節「ゼファーの覚醒」
エリカが杯の側面に刻まれた古代語を読み上げた。
「覚醒の言葉は------『恵みの雨に感謝する』」
恵みの雨に感謝する。
俺の時は「世界で一番愛してる」だった。なんというか------こっちの方がずっとまともだ。
ゼファーは杯を見つめていた。動かない。
手を伸ばせば届く距離。なのに、その手が動かない。
長い沈黙が落ちた。
天井からの光が杯を照らし続けている。埃が金色に舞う。静かだった。自分の心臓の音が聞こえるくらいに。
『......迷ってる』
わかった。表情を見ればわかる。ゼファーの目が揺れていた。
この人は、クランの長だ。四十五年をこの草原で生きてきた。息子がいる。孫もじきに生まれるかもしれない。クランの仲間がいる。守るべきものが、ここにある。
覚醒すれば------旅に出なければならない。
それは、この全てを置いていくということだ。
俺は何も言わなかった。エリカも黙っていた。タクファーも。
これはゼファーが自分で決めることだ。
ゼファーが口を開いた。
「------少し、昔の話をしていいか」
低い声だった。壁に反響して、丸い天井をぐるりと巡る。
「わしがまだ子供の頃------父が生きていた頃の話だ」
ゼフト。ゼファーの父。ガルダに毒殺された男。
「ある日、父がわしを連れて草原に出た。二人きりだった。父は草原を眺めながら------横に座るわしに、こう言った」
ゼファーの目が遠くなった。過去を見ている。
「『ゼファーよ。星の遺跡を知っているか?』」
幼い頃の父の声。ゼファーが再現する声は、いつもより柔らかかった。
「わしは答えた。『うん。お父さんから聞いた。僕たちのクランがいっぱい書かれているところ』」
タクファーが息を飲んだ。祖父の話。生まれる前に死んだ、会ったことのない祖父。
「父は笑った。そして言った------」
ゼファーが目を閉じた。
「『もしお前が道を求めるなら、星の遺跡に行きなさい』」
道を求めるなら。
「わしは聞いた。『道ってなあに?』」
「父は答えた。『大人になったらわかるさ』------そう言って、わしの頭を撫でた」
ゼファーが目を開けた。
杯を見ていた。
「あれから四十年近く経った」
声が低く響いた。
「父は殺された。道が何かもわからないまま、わしは長になった。クランを守ることだけを考えて生きてきた。それが道だと思っていた」
ゼファーの手が、ゆっくりと杯に伸びた。
「だが------」
指先が杯に触れた。
「お前たちが来た」
俺を見た。エリカを見た。
「異世界から来た子供が二人。末裔の話。覚醒具。まるで父が用意したかのように------道が、ここにあった」
ゼファーが杯を掴んだ。両手で。包み込むように。
古びた石の杯。掌にすっぽり収まる。軽い。だがゼファーの手は、何か途方もなく重いものを持っているように見えた。
「先祖が------わしを見守ってくれている」
ゼファーが立ち上がった。
杯を胸の前に掲げる。天井の光がゼファーの顔を照らした。目に迷いはなかった。
四十五年の人生。父の遺言。長としての責任。
全てを背負ったまま------ゼファーは前に進むことを選んだ。
「恵みの雨に感謝する」
声が、部屋全体に響いた。
まぶしい。目を細めた。杯から溢れた光が、ゼファーの手を、腕を、全身を包んでいく。緑と青が混ざり合った光。草原の色。空の色。
風が吹いた。
洞窟の中なのに------風が吹いている。どこからともなく。ゼファーを中心に、渦を巻くように。髪が舞い上がり、服がはためく。
風に匂いがあった。草の匂い。野営地の焚き火の匂い。馬の匂い。この半年で嗅ぎ慣れた------草原の匂い。
『これは------ゼファーの風だ』
理屈じゃない。そう感じた。この風は、ゼファーそのものだ。四十五年の記憶が風になって吹いている。
「------ッ」
ゼファーが目を見開いた。
知識が流れ込んでいるのだ。俺の時と同じ。覚醒具が末裔に真実を伝えている。自分が何者であるか。何をすべきか。
光が強くなる。もう直視できない。腕で目を覆った。
風の音が高くなった。笛のような音。草原を駆ける風の音。
唐突に、全てが止んだ。
光が消えた。風が止んだ。
静寂。
腕を下ろす。目を開ける。
ゼファーが立っていた。
杯を握りしめたまま、微動だにしない。
「ゼファーさん......?」
エリカが小声で呼んだ。
ゼファーが振り返った。
その目が------変わっていた。深い。底が見えないほど深い。知識と覚悟を飲み込んだ目だ。
「俺は------」
声が震えた。この男が震えるのを、初めて見た。
「風の柱の末裔------」
ゼファーが杯を下ろした。ゆっくりと。
「ゼフィロスの末裔だった」
だった------じゃない。もとからそうだったのだ。生まれた時から。父のゼフトも、そしてその前の先祖も------ずっと。
ゼファーが深く息を吸った。吐いた。何かを噛み締めるように。
「全て------見えた。わしが何者か。何をすべきか」
「何が見えたんですか」
エリカが聞いた。声を抑えて。
「仲間がいる。他の世界に、まだ覚醒していない末裔たちが」
ゼファーが俺を見た。
「カイト。お前が集めるのだ。十二人の末裔を。そして------始まりの地へ向かう」
始まりの地。聞いたことがある。アマルが創った最初の世界。
「ゼファーさん、痣......」
エリカが指さした。
ゼファーが腰に手をやった。服をずらす。臀部の痣。
白と黒だった紋様が------変わっていた。
緑と青のグラデーション。草原と空の色。風の色だ。
鮮やかに、力強く、脈打つように光っている。
タクファーが膝をついた。
「父上......」
それだけだった。それ以上の言葉はいらなかった。
ゼファーがタクファーの肩に手を置いた。何も言わない。ただ、しっかりと。
俺は二人を見ていた。
自分の覚醒の時のことを思い出す。あの時、俺は何もわからなかった。わけもわからず光に包まれて、気がついたら末裔になっていた。
ゼファーは違う。四十五年の人生をかけて、ここに辿り着いた。父の遺言を胸に、長としてクランを守り続けて------ようやく。
『......重さが、違うんだな』
天井の星が、いつもより明るく見えた。




