第3節「風のさかずき」
振り返っていいのか迷っていると、エリカの声がした。
「もういいよ」
振り向く。
エリカがめがねをかけていた。ピンクのフレームが、天井から差し込む光を受けて淡く光っている。
------目の前でエリカが一瞬よろけた。
「おい、大丈夫か」
「平気。量が多いだけ」
平気な顔じゃなかった。額に汗が浮いている。唇をきゅっと結んで、何かに耐えているような表情。
情報量が半端じゃないのだろう。この壁全面------千年分の歴史が一気に頭に入ってくるのだ。
数秒。エリカの表情が落ち着いた。目を開ける。
その目が------違う。
いつものエリカじゃない。情報を処理している目だ。膨大な量のデータを、猛烈な速度で読み取っている目。瞳の奥がチカチカと明滅しているように見えた。
エリカはゆっくりと壁に向き直った。
「......すごい」
呟いた声が震えていた。
「全部、見える。この壁に刻まれた文字------全部読める」
「全部って......この壁全面か?」
「うん。神話、伝承、歴代の長の記録、戦いの歴史、祭りの作法、星の読み方------」
エリカの目が左右に走った。視線が壁を舐めるように動く。
「千年以上の歴史が、ここに詰まってる」
ゼファーが黙って見ていた。自分たちの歴史が、異世界から来た少女の目を通して解読されていく。不思議な光景だったろう。
だがゼファーは何も言わなかった。エリカを信じている。それだけで十分だ。
エリカが壁沿いに歩き始めた。指は壁に触れない。少し離れたところを、なぞるように動かしている。
ぶつぶつと呟きが聞こえる。
「......ここは建国期......こっちは大飢饉の記録......この紋様は------」
足が止まった。
「カイト」
声のトーンが変わった。さっきまでの興奮とは違う。鋭い、確信の声。
「来て」
近づいた。エリカが指さしたのは、壁の下の方。古代文字に紛れて、小さな紋章が描かれていた。
------見覚えがある。
左脇の下がじんと熱くなった。痣が反応している。
「これ......」
「末裔の痣と同じ紋様よ」
間違いない。俺の脇の下にある痣。ゼファーの尻にある痣。あの独特な渦巻きと直線の組み合わせ。
壁の紋章は風化もしていなかった。周囲の文字が何百年も経って薄れているのに、この紋章だけが鮮明に残っている。
まるで------誰かを待っていたみたいに。
エリカが紋章をじっと見つめた。
「ここに何か隠されてる。紋章の周囲に、古代語で『押せ』と書いてある」
「押せって------壁を?」
「紋章を」
エリカが振り返った。ゼファーを見る。
「ゼファーさん。あなたが押してください」
ゼファーが歩み寄った。紋章を見下ろす。膝をつく。
一瞬の沈黙。
ゼファーの指が、紋章に触れた。
------カチン。
小さな音が響いた。
次の瞬間、低い振動が足裏に伝わった。壁の一部がずれている。岩が岩を擦る重たい音。砂がぱらぱらと落ちた。空気が動く。何百年も閉じていた空間が、息をするように開いた。
ゼファーが手を引くと、壁の一部が完全に外れた。
中は窪みになっていた。
拳二つ分くらいの空間。その中に------古びた杯があった。
石でできている。掌にすっぽり収まる大きさだ。表面に細かな模様が刻まれている。色はくすんだ灰色。何千年も------いや、もっと長い間、ここで眠っていたのだろう。
誰も手を出さなかった。
静寂が落ちた。天井の光が杯を照らしている。一筋の光だけが、まっすぐに杯を指していた。偶然にしては出来すぎだ。
『俺の覚醒も、こんなふうに用意されていたのか------』
勾玉を手にした時のことを思い出す。ばあちゃんの家。縁側。あの深い緑色。あの時は何も知らなかった。
今は違う。目の前にある杯が何なのか、俺たちは知っている。
エリカが口を開いた。静かな声だった。
「これが『風のさかずき』です」
ゼファーの息が止まった気がした。
「伝承によれば------」
エリカの目がめがね越しに古代文字を追っている。
「風の草原クランの始祖がこの地に降り立った時、最初の恵みの雨を受けるために使った杯です。始祖は雨を受け、大地に撒き、草原に命を与えた。そこから全てが始まった」
風の草原クランの原点。
ゼファーが杯を見つめていた。動かない。
タクファーも言葉を失っていた。自分たちのクランの始まりの物語が、伝説ではなく事実として目の前にある。
エリカが続けた。
「杯の側面に、もう一つ古代語が刻まれています。覚醒の言葉------これを唱えた者が、覚醒する」
「読めるのか」
俺が聞いた。
「うん」
エリカがめがねを外した。ふう、と小さく息をついて、額の汗を拭う。
「でも------」
エリカがゼファーを見た。まっすぐに。
「この言葉を唱えるのは、私じゃない」
杯の前に跪くゼファー。天井からの光。古びた石の杯。
千年の沈黙を破る瞬間が------近づいていた。




