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使徒がドジすぎて、巻き込まれた高校生が、破壊神と交渉してきます  作者: 松本正樹
第9章「風の歌を奏でん」
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第3節「風のさかずき」


 振り返っていいのか迷っていると、エリカの声がした。


 「もういいよ」


 振り向く。


 エリカがめがねをかけていた。ピンクのフレームが、天井から差し込む光を受けて淡く光っている。


 ------目の前でエリカが一瞬よろけた。


 「おい、大丈夫か」


 「平気。量が多いだけ」


 平気な顔じゃなかった。額に汗が浮いている。唇をきゅっと結んで、何かに耐えているような表情。


 情報量が半端じゃないのだろう。この壁全面------千年分の歴史が一気に頭に入ってくるのだ。


 数秒。エリカの表情が落ち着いた。目を開ける。


 その目が------違う。


 いつものエリカじゃない。情報を処理している目だ。膨大な量のデータを、猛烈な速度で読み取っている目。瞳の奥がチカチカと明滅しているように見えた。


 エリカはゆっくりと壁に向き直った。


 「......すごい」


 呟いた声が震えていた。


 「全部、見える。この壁に刻まれた文字------全部読める」


 「全部って......この壁全面か?」


 「うん。神話、伝承、歴代の長の記録、戦いの歴史、祭りの作法、星の読み方------」


 エリカの目が左右に走った。視線が壁を舐めるように動く。


 「千年以上の歴史が、ここに詰まってる」


 ゼファーが黙って見ていた。自分たちの歴史が、異世界から来た少女の目を通して解読されていく。不思議な光景だったろう。


 だがゼファーは何も言わなかった。エリカを信じている。それだけで十分だ。


 エリカが壁沿いに歩き始めた。指は壁に触れない。少し離れたところを、なぞるように動かしている。


 ぶつぶつと呟きが聞こえる。


 「......ここは建国期......こっちは大飢饉の記録......この紋様は------」


 足が止まった。


 「カイト」


 声のトーンが変わった。さっきまでの興奮とは違う。鋭い、確信の声。


 「来て」


 近づいた。エリカが指さしたのは、壁の下の方。古代文字に紛れて、小さな紋章が描かれていた。


 ------見覚えがある。


 左脇の下がじんと熱くなった。痣が反応している。


 「これ......」


 「末裔の痣と同じ紋様よ」


 間違いない。俺の脇の下にある痣。ゼファーの尻にある痣。あの独特な渦巻きと直線の組み合わせ。


 壁の紋章は風化もしていなかった。周囲の文字が何百年も経って薄れているのに、この紋章だけが鮮明に残っている。


 まるで------誰かを待っていたみたいに。


 エリカが紋章をじっと見つめた。


 「ここに何か隠されてる。紋章の周囲に、古代語で『押せ』と書いてある」


 「押せって------壁を?」


 「紋章を」


 エリカが振り返った。ゼファーを見る。


 「ゼファーさん。あなたが押してください」


 ゼファーが歩み寄った。紋章を見下ろす。膝をつく。


 一瞬の沈黙。


 ゼファーの指が、紋章に触れた。


 ------カチン。


 小さな音が響いた。


 次の瞬間、低い振動が足裏に伝わった。壁の一部がずれている。岩が岩を擦る重たい音。砂がぱらぱらと落ちた。空気が動く。何百年も閉じていた空間が、息をするように開いた。


 ゼファーが手を引くと、壁の一部が完全に外れた。


 中は窪みになっていた。


 拳二つ分くらいの空間。その中に------古びた杯があった。


 石でできている。掌にすっぽり収まる大きさだ。表面に細かな模様が刻まれている。色はくすんだ灰色。何千年も------いや、もっと長い間、ここで眠っていたのだろう。


 誰も手を出さなかった。


 静寂が落ちた。天井の光が杯を照らしている。一筋の光だけが、まっすぐに杯を指していた。偶然にしては出来すぎだ。


 『俺の覚醒も、こんなふうに用意されていたのか------』


 勾玉を手にした時のことを思い出す。ばあちゃんの家。縁側。あの深い緑色。あの時は何も知らなかった。


 今は違う。目の前にある杯が何なのか、俺たちは知っている。


 エリカが口を開いた。静かな声だった。


 「これが『風のさかずき』です」


 ゼファーの息が止まった気がした。


 「伝承によれば------」


 エリカの目がめがね越しに古代文字を追っている。


 「風の草原クランの始祖がこの地に降り立った時、最初の恵みの雨を受けるために使った杯です。始祖は雨を受け、大地に撒き、草原に命を与えた。そこから全てが始まった」


 風の草原クランの原点。


 ゼファーが杯を見つめていた。動かない。


 タクファーも言葉を失っていた。自分たちのクランの始まりの物語が、伝説ではなく事実として目の前にある。


 エリカが続けた。


 「杯の側面に、もう一つ古代語が刻まれています。覚醒の言葉------これを唱えた者が、覚醒する」


 「読めるのか」


 俺が聞いた。


 「うん」


 エリカがめがねを外した。ふう、と小さく息をついて、額の汗を拭う。


 「でも------」


 エリカがゼファーを見た。まっすぐに。


 「この言葉を唱えるのは、私じゃない」


 杯の前に跪くゼファー。天井からの光。古びた石の杯。


 千年の沈黙を破る瞬間が------近づいていた。


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