第6節「ナクナーレの巻物再び」
夕方。風の草原クランのテントに戻った。
西日がテントの布を透かして、中をオレンジ色に染めている。戦いの後の------穏やかな光だった。
ガルダは管理官に連行された。鉄の牙クランは解散。民は他のクランに吸収されるか、最悪の場合は奴隷になるだろう。十年にわたる不正の代償は重い。
だが------感慨に浸っている暇はない。
「もう一つの問題が残っている」
ゼファーが言った。俺とエリカの前に座り、真剣な目をしている。
「わしとお前たちの血の約定だ」
そうだ。競技会で優勝しなければ------名誉ある客人にはなれない。名誉ある客人でなければ、聖地への立ち入りは許されない。つまり星の遺跡に行けない。
ガルダとの約定は潰せた。だがこっちはまだ生きている。
ゼファーが立ち上がった。テントの奥に進み、木箱を一つ持ってきた。重そうだ。丁寧に蓋を開ける。
中に------巻物があった。
古い。表面が褐色に変色している。だが不思議な存在感があった。触れてもいないのに、空気が震えている気がする。
ナクナーレの巻物。
過去の出来事を一つだけ------なかったことにできる魔道具。あの謎の旅人がゼファーに渡したもの。異世界の品。
「この巻物を使う時が来た」
ゼファーの声は静かだった。迷いがない。
「ゼファーさん。本当にいいんですか?」
俺は聞いた。聞かずにはいられなかった。
「一度使ったら、もう使えないんですよね。こんな貴重なものを------俺たちのために」
ゼファーは俺を見た。
「貴重なものだからこそ、使うべき時に使う。それが道具というものだ」
そして------少しだけ笑った。
「それに------あの旅人から貰ったものだ。あやつの思惑とは真逆の使い方をしてやる。痛快だろう」
『ゼファーさん------意外と根に持つタイプだな』
エリカが小さく笑った。同じことを思ったらしい。
ゼファーは巻物を広げた。
褐色の紙面に、古い文字が並んでいる。読めない文字だ。だがエリカの目が一瞬光った。めがねをかけていないのに------何か感じ取ったのか。
『後で聞こう』
ゼファーが筆を取った。巻物の余白に、反故にする約定の内容を書き加える。丁寧な文字。一画一画に力が込められている。
書き終えた。
ゼファーが巻物を両手で持ち上げた。テントの中の空気が変わった。重くなった------というより、濃くなった。
「世界の神々よ」
ゼファーの声が響いた。低く、厳かに。
「ここに書かれし約束は------未来永劫なかったことにすることを申請する」
巻物が光った。
淡い金色の光だ。文字の一つ一つが浮かび上がり、空中に散る。蛍のように。テントの中が一瞬だけ、真昼のように明るくなった。
光が消えた。
巻物は------なかった。ゼファーの手の中で、灰のように崩れていた。風もないのに、粒子が舞い上がり、消えていく。
俺は血の約定書を開いた。
あれだけはっきりと刻まれていた文字が、一文字も残っていない。約束は消滅した。本当に------なかったことになった。
「......消えた」
俺は呟いた。実感が追いつかない。
エリカが約定書を覗き込んだ。
「本当に何もない。痕跡すらないわ------すごい」
知的好奇心が顔に出ている。怖い現象を見ても「すごい」が先に来る。さすがエリカだ。
ゼファーが手の中の灰を見つめていた。巻物の最後の粒子が消えていく。
「------惜しいとは思わんよ」
独り言のように呟いた。そして顔を上げた。
「これでお前たちを星の遺跡に連れて行ける」
「ありがとうございます。これは大きな前進です。では次の問題です。血の約定がなくなっていても、評議会が私たちを名誉有客人と認めてもらわなくてはいけません。今度はそれを解決しなくては。」
ゼファーは懐から巻物を取り出した。
「これはガンダールからの手紙だ。」
ゼファーはそれを開き、そして読み上げた。
「異世界からきた旅人よ。そなたたちは、我々放牧民のあるべき姿を自ら示し、そして我々の仲間を救った。放牧王の名において、そなたたちを名誉ある客人としてもてなしたい。」
その声には------安堵があった。ゼファーにとって、星の遺跡は父の遺言だ。「道を求めるなら、星の遺跡に行け」------ゼフトが最期に残した言葉。
ガルダに奪われた十年。その間ずっと、遺跡への道は閉ざされていた。
今------開いた。
俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。ゼファーさん」
言葉が足りない気がした。だが------それ以上の言葉が見つからなかった。
エリカも頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます」
ゼファーは二人の頭を見下ろして、静かに言った。
「礼はいらん。わしも------行きたかった場所だ」
テントの外で、夕風が草原を渡っていった。
西の空が赤い。明日は晴れるだろう。
星の遺跡。父の遺言。そして------俺たちの旅の、次の目的地。
何があるのかは分からない。だが------行かなければならない。あの謎の旅人が、どうしても行かせたくなかった場所だ。
きっとそこに------答えがある。
**第8章「逆転の一手」 了**




