第4節「潜入」
草原を低く走った。
月が雲に隠れている。暗い。足元の草が膝を叩く。湿った土の匂い。遠くで獣が鳴いた。
鉄の牙の野営地が近づいてくる。テントが十数張り。篝火はほとんど消えかけていた。赤い炭が闇の中でぼんやり光っている。
「------見張りは二人。右と左に一人ずつ」
エリカが小声で言った。身を低くしたまま、暗闇の中でも目が利く。
「巡回の間隔は?」
「テントの周りを一周するのに------だいたい四百歩。三分くらい」
『さすが。もうデータ取ってやがる』
俺たちは篝火の死角に回り込んだ。地面に伏せる。草の匂いが鼻をくすぐった。
「ガルダのテントはどれだ?」
「一番大きいやつ。中央の------あれよ」
エリカが指さす先に、ひときわ大きなテントがあった。入口に布がかかっている。中にはうっすらと明かりが灯っている。
見張りが右に歩いていく。背中が闇に消えた。
「今よ」
二人で駆けた。音を立てないように。草を踏む感触だけが足裏に伝わる。テントの裏に張り付く。獣皮の壁に背中を預けた。心臓がうるさい。隣のエリカも同じだ。肩越しに伝わる緊張。
テントの中から、声が聞こえた。ガルダだ。誰かと一緒だ。
裏に回り、中の様子を除くと、ガルダが女を従えて上機嫌で飲んでいる。
「十年前といい、今回も全くたやすかったな。バカを相手にするのは簡単だ。」
『いい気なもんだ』
エリカがポケットからめがねを取り出した。暗がりでも分かる。ピンクのフレーム。星の明かりを反射して、場違いに可愛い。
「------カイト」
「分かってる」
お約束だ。
今度は自主的に後ろを向いた。両手で耳を塞ぐ。草原の真っ暗闘の中、敵のテントの裏で、耳をふさいで後ろを向く十五歳。
『絵面がひどすぎる』
しばらく待った。耳をふさいでいても、かすかにエリカの声が漏れ聞こえた。何か------甘ったるい言葉のような。
肩を叩かれた。
「いいわよ」
振り返ると、エリカがめがねをかけていた。暗闘でも分かるくらい頬が赤い。
「聞いてないわよね?」
「聞いてない聞いてない」
『ちょっと聞こえた。でも墓まで持っていく』
エリカは深呼吸した。表情が変わる。遊びの時間は終わりだ。
もう一度、テントの裏から中をのぞいて、ガルダの後ろ姿をしっかり見た。
「集中する。少し時間がかかるわ」
めがねの縁がかすかに光った------ような気がした。暗くてよく見えない。
沈黙が落ちた。ガルダが今考えていることをしっかり読み取っていく。
俺は周囲を警戒した。見張りの足音が遠い。風の音。草の擦れる音。心臓の音が異様に大きく聞こえる。
一分。二分。長い。
エリカの呼吸が変わった。浅くなっている。集中しているのだ。めがねを通じてガルダの思考に潜り込んでいる。
やがて------エリカの目が開いた。
「見つけた」
小さな声。だが確信に満ちていた。
「------からくりが分かった」
エリカの目が暗闇の中で光っている。怒りだ。冷たい怒り。
「全部------あの男の仕業よ」
俺たちはガルダのテントからそっと離れた。音を立てないように。見張りの巡回に合わせて、テントの影を伝い、野営地の外まで戻る。
途中、足元の枝を踏んだ。ぱきり。小さな音。だが夜の静寂の中ではやけに響く。
二人で息を殺した。見張りの足音が止まった。
足音が再び動き出す。反対方向へ。気づかれなかった。
エリカが俺の袖を引っ張る。今だ。最後のテントの影を抜け、草原に出る。
篝火の明かりが届かない場所まで来て、ようやく息をついた。
「------話して」
「まず十年前のこと」
エリカが声を抑えて語り始めた。めがねを外し、ポケットにしまう。手が微かに震えていた。怒りのせいだ。
「ガルダはゼフトさんに麻薬を盛ったの。酒じゃない。意識を朦朧とさせる薬物よ。朦朧としている状態で------無理やり血の約定の契約書にサインさせた」
俺の拳が握られた。
ゼフト。ゼファーさんの父親。十年前に死んだ人だ。ガルダに毒を盛られて------あの約定を結ばされた。
「正当な約定じゃなかったんだ」
「ええ。最初から不正よ」
エリカは続けた。
「そして今回の風の勇者。ガルダは------あの謎の旅人と繋がっていた」
予想はしていた。だが聞くと腹が立つ。
「旅人がやったのはシンプルなの。カイト------あなたの馬アルガンに、重力のリンゴを食べさせた。」
「重力のリンゴって、ああ。そうか。それで馬が重くなって------」
「それだけじゃない。旅人はもう一つ仕事をしていた。崖の上からタクファーの馬に石を投げた」
息が止まった。
「------あの落馬は、事故じゃなかったのか」
「ええ。馬に石を当てて転倒させた。計画的よ」
タクファーの顔が浮かんだ。崖から落ちかけた時の恐怖。あの手の重さ。指が軋む感覚。俺が手を離していたら------タクファーは死んでいた。
それを、あの男が仕組んだ。ガルダが命じた。
怒りが腹の底から込み上げてきた。
「------許せねえ」
声が低くなった。自分でも分かる。
「カイト。気持ちは分かるけど------今は冷静に」
「分かってる」
歯を食いしばった。怒りは後だ。今は情報を整理する。
「さらに------ガルダは監視役を送っていたわ。ジールという男。崖の反対側で旅人の行動を見張らせていた。つまりガルダは事前に計画を知っていて、実行を確認させた」
「証人がいるってことか」
「ええ。ジールはガルダの命令で動いた。本人もそれを知っている」
エリカが俺を見た。暗がりの中でも表情が分かった。冷静だ。怒りを制御している。分析者の顔だ。
「もう一つ。ボルカは------タクファーが崖から落ちるのを見ていたわ」
「何だって?」
「見ていたのに助けなかった。放牧民の掟では------競技中に危険に遭った者を助けるのは絶対の義務よね?」
ああ。それは俺も知っている。風の勇者の掟だ。危険を見て見ぬふりをすれば------失格。
「材料は揃った」
エリカが立ち上がった。草原の風が髪を揺らす。
「十年前の麻薬。今回の妨害。ジールの証言。ボルカの掟違反。全部使えるわ」
「どうやって暴く? ガルダが素直に認めるわけないだろ」
「ガルダ本人に認めさせる必要はないの」
エリカが指を一本立てた。
「王立図書館にあったの。評議会には正義の泉水というのがあるの。数々のもめごとをそれで解決しているわ。それを飲むと質問に正直に答えるそうよ」
「ジールに------正義の泉水を飲ませればいい」
正義の泉水。飲んだ者は嘘をつけなくなる。放牧民の裁きに使われる聖なる水だ。
「ジールが全部喋ってくれる。嘘をつけないんだから」
完璧だった。
「......お前、全部組み立ててたのか」
「まあね」
エリカが少しだけ笑った。
「計算通りよ」
『やっぱりこいつ------敵に回したくねえ』
俺たちは風の草原クランに向かって走り出した。夜明けまであと数時間。やることは山ほどある。
だが------勝てる。その確信があった。




