第1節「ゼファーの礼」
テントに戻ると、ゼファーが待っていた。
獣脂のランプが揺れている。その光が、ゼファーの顔を照らしていた。いつもの威厳。いつもの静けさ。だが------目だけが違う。
俺とタクファーは、ゼファーの前に座った。エリカはテントの隅で、静かにこちらを見ている。
タクファーが口を開いた。
「父上。ご報告いたします」
声が硬い。タクファーは背筋を伸ばし、まっすぐ父を見た。
「復路の崖道で------俺の馬が転びました」
ゼファーは微動だにしない。瞬き一つしない。まるで石像だ。
「崖から落ちかけました。片手で岩を掴み、もう片方の手はカイトが握ってくれていました」
俺は黙っていた。タクファーの報告を聞いていると、あの瞬間が蘇る。風。崖の下の暗闇。タクファーの手の重さ。指が軋む感触。腕がちぎれそうだった。それでも------離す気はなかった。
「カイトは------手を離しませんでした」
タクファーの声が震えた。
「俺を引き上げてから、二人で馬を走らせました。結果は------最下位です」
沈黙が落ちた。
ランプの炎がぱちりと音を立てる。テントの外で馬が鳴いた。草原を渡る風の音。それだけが聞こえる。
俺は拳を握った。
『言わなきゃいけないことがある』
「ゼファーさん」
声が出た。思ったより小さかった。
「俺は------優勝できませんでした。約束を果たせなかった」
ゼファーの目を見た。視線がぶつかる。
「すみません」
頭を下げた。
------長い沈黙。
やがて、ゼファーが立ち上がった。
大きな体が動く。足音が一歩、二歩。近づいてくる。
『怒られるのか------まあ、当然だよな』
覚悟を決めた。だが------。
ゼファーは俺の前に来ると、そのまま膝をついた。
片膝で跪き、その膝に握りこぶしで肘を添える。
草原の民の最上位の礼------長が、誰かの前に跪く。それは命を救われた者だけに許される、最も重い感謝の形だと聞いたことがある。
俺は固まった。体が動かない。
テントの中の空気が変わった。タクファーが息を呑む音が聞こえた。エリカも動きを止めている。
この光景の意味を、全員が理解していた。
「ゼファーさん------何を」
「黙って聞け」
低い声だった。しかし怒りではない。
ゼファーはゆっくりと顔を上げた。
「お前たちは------タクシマルだけでなく、タクファーをも救ってくれた」
その目が赤かった。
泣いている------わけではない。泣くのを堪えているのだ。この人は、そういう人だ。
「お前たちが異世界人であろうと。伝承の呪いがあろうと------わしはお前たちをクランの友と認める」
声が、テントの中に響いた。
「これは決して変わらぬ」
タクファーが目を伏せた。肩が震えている。エリカが小さく息を呑んだ。
エリカが小さく笑った。
「よかったね、カイト」
小声だった。だがその声は柔らかかった。
俺は------何も言えなかった。
ゼファーさんが跪いている。俺の前に。この人は四十五歳のクランの長だ。何百人もの民を率いる男だ。その人が、十五歳のガキの前に膝をついている。
「俺は------」
声を絞り出した。
「優勝より大切なものがあるって------ゼファーさんが教えてくれたんです」
ゼファーは首を振った。
「わしは教えておらん」
そして------少しだけ笑った。
「お前が自分で証明した」
ゼファーが立ち上がった。大きな手が俺の肩を叩く。ずしりと重い。だが温かかった。
「ありがとう------カイト」
ゼファーがその名を呼ぶ。名前だけ。敬称も肩書きもなく。
それが------「クランの友」という意味なのだと分かった。
その時だった。
「カイトにいちゃん!」
テントの入口から、小さな影が飛び込んできた。タクシマルだ。寝巻き姿のまま、まっすぐ俺に突進してくる。
「おわっ------」
避ける暇もなかった。タクシマルが俺の腹に突っ込んだ。三歳児の体当たり。地味に痛い。
「帰ってきた! カイトにいちゃん帰ってきた!」
小さな腕が俺の首にしがみつく。温かい。
「本当のにいちゃんみたい!」
『本当のって------俺、養子だけどな』
思わず笑いそうになった。でもそのツッコミは飲み込んだ。
「ああ。ただいま、タクシマル」
小さな頭を撫でた。柔らかい髪。毛布の匂いがする。この子を救えた日のことを思い出す。カンガルー蛇の毒。灼熱草。あの時も------考えるより先に体が動いた。
そしてタクファーの時も。
『俺はいつもそうだ。考える前に動いちまう』
それが良いことなのか悪いことなのか分からない。でも------この腕の中の温もりが答えな気がした。
タクファーが目尻を拭いた。
「すまないな、カイト。息子が------」
「いいですよ」
タクシマルを抱き上げた。軽い。でもずっしりと感じる。命の重さというやつだ。
「ゼファーさん」
俺はタクシマルを抱いたまま、ゼファーを見た。
「この旅------最後まで付き合わせてください」
ゼファーは深く頷いた。
「無論だ」
ランプの炎が、また一つぱちりと弾けた。テントの中は温かかった。草原の夜は冷える。だがこの瞬間------寒さは感じなかった。




