第12節「手を離さない」
タクファーの手首を掴んだ。
崖の縁に足を引っ掛け、体を固定した。岩の突起に靴を押し当てる。片手で岩を握り、もう片方の手でタクファーの手首を掴む。
「掴まった......!」
指に力を込めた。タクファーの体重がずしりとかかる。
重い。
当たり前だ。タクファーは大人の男だ。鍛え上げられた放牧民の体。俺より二回りは大きい。
引き上げようとした。
腕に力を入れた。全力で。歯を食いしばった。
動かない。
『くそ------無理だ。引き上げられない』
俺には無限の体力がある。でも------筋力があるわけじゃない。体力と筋力は別物だ。どれだけ疲れなくても、持ち上げる力がなければ持ち上げられない。
腕が震えていた。タクファーの体重で肩が軋む。指の関節が痛い。手首が千切れそうだ。
「カイト......お前まで落ちる......手を離せ......」
タクファーの声だ。下から。かすれている。
「うるせえ......! 絶対離さねえ......!」
「馬鹿......お前が死んだら意味がないだろう......」
「お前が死んでも意味がねえんだよ......!」
叫んだ。崖に声が反響した。
引き上げられない。でも離せない。この手を離したら------タクファーは落ちる。数十メートルの断崖。助からない。
だから離さない。
その姿勢のまま------時間だけが過ぎた。
一分。二分。三分。
腕の震えが止まらない。痛みが走る。肩の筋が悲鳴を上げている。指先の感覚が薄れてきた。
普通の人間なら------とっくに限界だ。握力が尽きて、手が離れて、二人とも落ちていた。
でも俺の体力は尽きない。
痛みはある。でも疲労がない。筋肉が悲鳴を上げても、体そのものは動き続ける。壊れない。止まらない。
これが俺の力だ。走ることだけじゃなかった。耐えることもできる。どこまでも。
五分。十分。
「カイト......」
タクファーの声が震えていた。怒りでも苦痛でもない。
「お前......なぜ離さない......優勝の望みはあったのに......」
「俺は風の草原クランの一人としてここにいるんだ。逆なら、お前はどうした」
タクファーは目を見開いた。
「お前が走ってくれたから、ここまで来れた。馬の乗り方も教えてくれた。お前がいなかったら俺は何もできなかった」
腕が痛い。でも声は止めない。
「だから------落とさない。絶対に」
タクファーは何も言わなかった。ただ------俺の手首を握り返した。強く。
* * *
蹄の音が聞こえた。あんなにすぐ来ると思っていたのに、永遠の時間だ。
後続の競技者だ。崖道に差し掛かり------二人の姿を見て、馬を止めた。
「何があった!」
「人が落ちかけてるぞ!」
馬から降りた。崖の縁に駆け寄る。
「掴まってろ! 今引き上げる!」
強い手が俺の体を支えた。もう一人がタクファーの腕を掴んだ。
さらに蹄の音。次の競技者たちが到着した。崖道に馬が並ぶ。全員が止まった。一人も素通りしなかった。
「おい、何人必要だ!」
「崖に降りられる奴はいるか!」
声が飛び交う。異なるクランの紋章。鉄の牙でも風の草原クランでもない。名前も知らない者たちだ。
でも------全員が馬を降りた。
一人が崖に縄を垂らした。馬具から外した革紐だ。もう一人がそれを結び直した。三人がかりでタクファーの体を引き上げにかかる。
さらに後続が到着する。また止まった。馬を降りた。手を貸した。
次の者も。その次の者も。
気がつけば------崖道に全ての競技者が集まっていた。
誰一人、走り去らなかった。
「せーのっ!」
掛け声が響いた。何本もの手がタクファーの体を掴む。引き上げる。革紐が軋む。岩が擦れる音。
タクファーの体が崖の上に戻った。ごろりと地面に転がった。
「------助かった」
タクファーが呟いた。目を閉じている。片腕は折れている。でも------生きている。
俺も仰向けに倒れた。空が見えた。青い空だ。
しばらく誰も動かなかった。荒い息遣いだけが崖道に響いていた。
一人の競技者が立ち上がった。年配の男だ。灰色のクランの紋章をつけている。
「怪我は重いか」
「片腕が折れている。でも------命は無事だ」
「そうか」
男はうなずいた。それから------崖道に集まった全員を見渡した。
「ここにいる全員に問う。このまま走るか」
沈黙が落ちた。
風が吹いた。誰も答えない。
年配の男が続けた。
「三番手のボルカは、ここを通ったはずだ。二人を見て------なぜ止まらなかった」
しばらく沈黙が流れた。皆、風のクランと鉄の牙の約定事件と異世界人の話は知っていた。
声が低い。怒りではない。悲しみに近い何かだった。
別の競技者が言った。若い男だ。
「あの異世界人の少年は、馬を降りて仲間を掴んでいた。レースを捨ててな」
俺を見た。何人もの目が俺を見ていた。
「あれが------勇者だろう」
静かな声だった。でも崖道に響いた。
年配の男がうなずいた。
「全員で行こう。急ぐ必要はない」
異論はなかった。
* * *
タクファーの片腕を肩に担いだ。
「歩けるか」
「......お前に心配されるとは情けないな」
「うるせえ。歩くぞ」
風のメドルは落ち着きを取り戻していた。タクファーが片手で手綱を握る。俺はアルガンに跨った。アルガンは相変わらず重い足取りだ。でも------もう焦る必要はない。
全ての競技者が馬に乗った。誰も先を急がなかった。
崖道を抜けた。山を下り、草原に出た。横一列のまま、誰も言葉を交わさなかった。
* * *
夕方。ゴールが見えてきた。
草原の向こうに広場がある。旗が揺れている。鉄の牙の紋章だ。
ボルカが既にゴールしていた。当然だ。あいつは崖道で止まらなかった。
俺たちは横一列で進んでいた。タクファーが隣にいる。片腕を吊ったまま、背筋を伸ばしている。その向こうに------全ての競技者が並んでいた。異なるクランの旗が風に翻っている。灰色。青。緑。赤。
アルガンの足は相変わらず重い。でも------もう焦る必要はない。
広場が近づくにつれて、ざわめきが聞こえてきた。
観衆の声だ。驚いている。ボルカ以外の全競技者が------横一列で戻ってくるのだ。見たことのない光景だろう。
蹄の音が重なっていた。地面が震えている。俺たちの背後に砂埃が巻き上がっている。夕陽がそれを橙色に染めていた。
広場に入った。
観衆が静まった。一瞬で。
ガルダの笑顔が消えた。ボルカの涼しい顔に、初めて動揺が走った。
ゼファーが------笑っていた。小さく。でも確かに。腕を組んだまま、俺たちを見ていた。
一列のまま、ゴールラインを超えた。全員が。同時に。
蹄の音が止んだ。砂埃がゆっくりと晴れていく。
順位は------最下位だ。全員が同着の、最下位。
でも広場は静かだった。誰も笑わなかった。誰も蔑まなかった。
ゼファーがボルカに歩み寄った。
「崖道で何があったか知っているな」
「俺は知らない。俺が通り過ぎた後で起こったことだろう」
ボルカは涼しい顔に戻っていた。嘘だ。あいつは通り過ぎたのだ。タクファーがぶら下がっている崖を------見て。
ゼファーの目が鋭くなった。しかしそれ以上は追及しなかった。証拠がない。
悔しい。結果だけ見れば、俺たちの完敗だ。血の約定は破れた。星の遺跡への道は閉ざされた。
でも------。
不思議と、胸にはすがすがしいものがあった。
『タクファーを助けた。それだけは------正しかった』
ゴールの外にエリカがいた。
エリカは俺を見た。最下位の俺を。ボロボロの俺を。
怒るかと思った。「何やってるのよ」と言われるかと思った。
エリカは------静かに微笑んだ。
「おかえり」
たった一言。
それだけで十分だった。
**第7章「風の勇者」 了**




