第9節「往路の結果」
午後一時。宿泊所に着いた。
山を下り、草原を抜け、木造の小屋が見えた瞬間------足を止めた。
着いた。
顔色は変わっていない。息も上がっていない。汗すらほとんどかいていなかった。
宿泊所の係員が飛び出してきた。中年の男だ。記録簿を持っている。
「もう着いたのか......?」
目を丸くしている。無理もない。百キロの往路を七時間で走り切る奴なんていない。
「一番乗り、です」
「わ、分かっとる! 他に誰もおらんのだから!」
係員は慌てて記録簿に書き込んだ。手が震えている。
俺は水を一杯もらって座り込んだ。木の椅子が硬い。でも心地よかった。
『着いた......とりあえず、ここまでは計画通りだ』
エリカの計算では七時間前後。ほぼぴったりだ。あいつの頭脳は本当に信頼できる。
問題はここからだ。次の走者が何時間後に来るか。3.5時間以上の差があれば、復路で追いつかれても逃げ切れる------はず。
待った。
一時間。二時間。三時間。
誰も来ない。
係員が時折こちらを見ている。信じられないという顔だ。
三時間半後。ようやく足音が聞こえた。
一人目。息を切らして走り込んできた。膝に手をつき、その場に崩れ落ちた。二人目。三人目。立て続けに到着する。
ボルカは三番手だった。
俺の姿を見て------顔を歪めた。
「チッ......」
舌打ち。それだけだった。しかし俺を睨む目には怒りがあった。三時間半の差。想定外だったのだろう。
ボルカはすぐに目を逸らした。不敵な笑みが浮かんだ。
『何だ、あの顔。まだ余裕があるのか?』
嫌な予感がした。でも今は考えても仕方ない。
四番手。五番手------タクファーだった。
「お前......本当に人間か......?」
タクファーは汗だくだった。呼吸が荒い。それでも俺の前に来て、膝に手をついたまま笑った。
「三時間半待ったぞ。暇だった」
「この------化け物め------」
「人間だよ。ただの災難体質の高校生だ」
「高校生ってなんだ?」
「......説明すると長い」
タクファーは笑いながら水をがぶ飲みした。三杯目で息がようやく落ち着いた。
「しかし------三時間半か。エリカの作戦通りだな」
「ああ。あいつの頭脳がなかったら、こんな走り方は思いつかなかった」
「お前たちは面白いコンビだ。脚だけの男と、頭だけの女」
「......言い方」
タクファーは声を上げて笑った。
その後も競技者たちが続々と到着した。全員が疲労困憊だ。中には担架で運ばれてくる者もいた。百キロの往路はそれだけ過酷なのだ。
俺だけが平然としている。
『この差は大きい。体力を温存したまま復路に挑める。有利だ』
夜になった。宿泊所の各部屋に競技者たちが割り振られた。馬は隣の厩舎に繋がれている。アルガンもそこにいるはずだ。明日の復路に備えて、早めに寝ることにした。
* * *
深夜。厩舎に影が一つ。
ボルカだった。
自分の馬の様子を見るふりをして、厩舎の奥に進んだ。目的の馬はすぐに見つかった。黒い毛並み。額の白い星。
アルガン。
ボルカは懐からリンゴを取り出した。赤くて大きい。あの謎の旅人から受け取ったリンゴだ。
アルガンの鼻先に差し出した。
アルガンはそっぽを向いた。知らない人間の食べ物を簡単には受け取らない。気性の荒さがここでも出ている。
ボルカは焦らなかった。リンゴをアルガンの鼻の前に置いた。甘い匂いが漂う。
アルガンの鼻が動いた。匂いをかいでいる。
一秒。二秒。三秒。
一口で。
ボルカは口元だけで笑った。
『タクファーの馬は、さすがにひかからなかったが、この馬は馬鹿だ。所詮は食い意地の張った畜生か。またタクファーはあいつが仕留めてくれる。念のためだ。』
リンゴの効果は翌朝には出るはずだ。体が重くなる。まともに走れなくなる。三時間半の差など------騎馬なら簡単にひっくり返せる。
『まあいい。騎馬では追いつける。そして------あの策がある』
ボルカは厩舎を出た。月明かりの下、影が消えた。
アルガンはもう一度鼻を鳴らした。何かが違う。体の奥が重い。しかし馬にはその意味が分からなかった。




