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第8節「全力疾走」


走った。


ひたすら走った。


草原を抜け、丘を越え、岩場に入った。足元が悪くなる。石が転がっている。普通ならペースを落とす場所だ。


落とさなかった。


夜の空気が冷たい。汗をかいているはずなのに寒くない。体が熱を作り続けている。エンジンが止まらない機械みたいだ。


『不思議だ......全然疲れない......』


体が軽い。脚が回る。心臓は平常通り。呼吸も乱れない。全速力で走っているのに、散歩しているときと同じ感覚だ。


この世界に来てから半年。ずっと感じていた違和感の正体がこれだった。タクファーと一緒に馬の世話をしても疲れない。草原を走り回っても息が上がらない。最初は気のせいだと思っていた。でも今------全力で走り続けて確信した。


俺の体は変わっている。転移したときに、何かが変わった。


無限の体力。


大げさじゃない。本当にそうとしか言いようがない。


後ろから声が聞こえた。まだ距離が近い競技者たちだ。


「あの異世界人、すぐにバテるぞ」


「馬鹿な走り方だ。五キロも持たん」


笑い声。当然だ。百キロのレースで最初から全力なんて、自殺行為にしか見えない。


五キロ地点。


俺はペースを落とさなかった。


笑い声が消えた。


十キロ地点。


後続の姿が見えなくなった。


「......嘘だろ」


誰かの声が風に乗って聞こえた。遥か後方から。


「あいつ、化け物か......?」


「ペースが全く落ちてねえ......」


もう笑っている者はいなかった。


『化け物じゃない。ただの高校生だ。災難体質の』


でも------悪い気はしなかった。


生まれてからずっと災難体質だった。何をやってもうまくいかない。運動も勉強もそこそこ。取り柄なんてないと思っていた。


でもこの世界で------走ることだけは誰にも負けない。


夜が深まった。月が高い。星が降るように光っている。草原が銀色に染まっている。


二十キロ。三十キロ。山道に入った。


傾斜がきつくなる。岩が大きくなる。道が狭くなる。普通の競技者ならここで大幅にペースが落ちる。


俺は走った。岩を飛び越え、斜面を駆け上がった。脚は軽い。呼吸は変わらない。


四十キロ。五十キロ。


もう誰もいない。前にも後ろにも。


俺一人だった。


夜の山を一人で走る。静かだ。自分の足音と、風の音だけ。時折、獣の鳴き声が遠くから聞こえた。狼だろうか。この山には野生動物がいるとタクファーが言っていた。


怖くないと言えば嘘になる。でも足は止まらない。


ゼファーの言葉を思い出した。風の勇者は力量ではなく人格を問われる。正直、人格なんて大したものは持ち合わせていない。でも------逃げないことくらいはできる。


『エリカの計算では七時間で着けるはずだ。今のペースなら------いける』


山道が険しくなった。岩壁が両側にそびえる。ここが最難関だ。足場が不安定で、一歩間違えれば谷に落ちる。


慎重に。でも止まらない。


一歩、また一歩。手がかりを探して岩を掴む。体を引き上げる。疲れない。体力は無限だ。でも技術は素人だ。何度か足を滑らせた。膝を擦りむいた。


『痛えな......でも止まれない』


夜明けの光が見え始めた。東の空が白くなる。


 そして------山頂。


 立った。頂上に立った。


風が吹き抜けた。全身を包んだ。目の前に草原が広がっている。夜明けの光が地平線を染めている。金色だった。


『綺麗だ------』


一瞬だけ足を止めた。この景色を見たのは俺が一番乗りだ。誰よりも先に。


日本にいた頃、こんな景色を見たことはなかった。マンションの窓から見える空はいつも狭かった。ここは違う。世界が果てしなく広い。


後続はまだ見えない。差は開き続けている。


『俺にできることはこれしかない。走ることだけは------誰にも負けない』


それが俺の強みだ。この世界で見つけた、たった一つの武器。災難体質で、馬術は素人で、剣も魔法も使えない。でも------走れる。どこまでも。


山頂を越えた。下り坂に入る。宿泊所はまだ先だ。


走った。止まらなかった。


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