第6節「競技会開始」
夜明け前。空はまだ暗い。
草原大耐久競走------風の勇者。全長百キロメートルの過酷なレースだ。
ルールは単純。日没から走り始め、夜通し山を越える。山頂を越えて反対側の麓まで降りたら宿泊所で一夜を明かす。翌日、到着順に時間差で騎馬スタート。最も早くゴールした者が優勝。
つまり------往路は己の脚。復路は馬の脚。人と馬の両方が試される。
スタートラインには百人以上の競技者が並んでいた。各クランの精鋭たち。鍛え上げられた体。引き締まった顔。全員が放牧民だ。
俺はその端にいた。
『場違いにもほどがある』
周りを見渡した。革の靴を履いた脚。日に焼けた肌。幼い頃から草原を走り回ってきた者たちだ。筋肉のつき方が違う。走るための体をしている。
隣の男が俺を見た。目が語っている。「こいつ誰だ」と。異世界人がこの場にいること自体が異例なのだ。視線が刺さる。あちこちから。
でも------慣れた。この半年、ずっとそうだった。
「カイト兄ちゃん!」
声が飛んできた。観客席の前列。タクシマルだ。小さな体を精一杯伸ばして手を振っている。
「頑張って! 絶対勝って!」
『ああ。勝つよ』
隣にソクタンがいた。タクシマルの肩を抱いている。穏やかな笑顔で俺にうなずいた。
視線を移す。少し離れた場所にゼファーがいた。腕を組んで立っている。無言だ。表情も変わらない。でも------ここにいる。それだけで十分だった。
タクファーが近づいてきた。
「カイト。最後に一つだけ言っておく」
「なんだ?」
「馬鹿なことをするなよ」
「......それ、もう遅くないか?」
タクファーは笑った。肩を叩かれた。重い手だ。
「ま、馬鹿は馬鹿なりに走れ。アルガンを信じろ」
『アルガンは復路だろ。往路は俺の脚だけだ』
とは言わなかった。タクファーなりの激励だ。素直に受け取る。
スタートラインに戻った。前方には山がそびえている。闇の中で黒い壁のように見える。あの山を越える。百キロ先のゴールを目指す。
風が吹いた。草原の匂い。半年間嗅ぎ続けた匂いだ。
隣にボルカがいた。ガルダの息子。体格は俺より二回りは大きい。目が合った。ボルカは何も言わなかった。ただ前を向いた。鋼のような目だ。勝つことしか考えていない目。
『こいつが一番の相手か。いや------こいつだけじゃない。百人全員が敵だ』
深く息を吸った。吐いた。体が軽い。いつもと同じだ。この世界に来てからずっと。
号砲が鳴った。
轟音。空気が震えた。
百人以上の競技者が一斉に走り出す。
百キロを走り切るには体力の配分が全てだ。最初から飛ばせば後半で潰れる。放牧民は全員それを知っている。だから序盤はジョギング程度のペース。息を整えながら、長い夜に備える。
俺もそうすべきだった。常識的に考えれば。
『でも------俺は常識じゃ勝てない』
脚に力を入れた。
全速力。
最初の一歩から------全力で走った。
地面を蹴る。体が前に飛ぶ。もう一歩。さらにもう一歩。加速する。止まらない。
風が耳を裂いた。景色が後ろに流れる。周囲の競技者がどんどん小さくなる。
「なっ------あいつ!」
「馬鹿か! あのペースで百キロ持つわけがない!」
後ろからざわめきが聞こえた。当然だ。こんな走り方をする奴はいない。
でも------俺は疲れない。
この世界に来てから、どれだけ走っても息が上がらない。エリカが立てた作戦の核心がこれだ。
『往路で差をつける。3.5時間以上。それが最低条件だ』
夜の草原を駆け抜けた。一人だけ。圧倒的な速度で。星空の下、影が草原を滑っていく。
一キロ。二キロ。三キロ。差は開く一方だ。
背後のスタート地点で、タクシマルが目を丸くしていた。ソクタンが口を開けていた。タクファーが額に手を当てていた。
ゼファーだけが腕を組んだまま、何も言わなかった。
ただ------ほんの少しだけ、口元が動いた気がした。




