第5節「競技会前夜」
競技会の前夜。ゼファーに呼ばれた。
「話しておかなければならないことがある」
テントの中にはゼファーとタクファーがいた。エリカも一緒だ。焚き火の光が四人の顔を照らしている。
ゼファーの表情はいつもより硬い。
「風の勇者に出る以上、知っておくべきことがある」
俺は背筋を伸ばした。
「風の勇者は------ただの競争ではない」
ゼファーは静かに語り始めた。
「勇者を選ぶ儀式だ。問われるのは力量だけではない。人格もだ」
「人格......」
「昔の話をしよう」
焚き火が爆ぜた。ゼファーの声が低く響く。
「はるか昔、風の勇者の最中にドラゴンが現れた。山岳地帯を通過中の参加者たちが襲われた。逃げる者、馬を捨てる者、混乱の中で------ひとりの男が立ち向かった」
タクファーも黙って聞いている。この話は放牧民なら誰でも知っているのだろう。でも何度聞いても背筋が伸びる------そんな話なのだと、二人の表情が語っていた。
「男はひとりで皆をかばい、ドラゴンを撃退した。だが深く傷ついた。立てないほどに」
ゼファーの声に力がこもった。タクファーが目を閉じている。幼い頃から何度も聞いた話なのだろう。それでも胸に響く。そういう物語だ。
「......それで、どうなったんですか」
「他の参加者たちが男を馬に乗せた。自分たちの馬と並べて、ゴールまで連れて行った。そしてゴールの直前で------全員が跪いた」
ゼファーは一度言葉を切った。
「勇者にゴールを譲ったのだ」
沈黙が落ちた。焚き火の音だけが響く。
「これが風の勇者の精神だ。速さではない。強さでもない。仲間を守り、正しいことを貫く者。それが勇者だ」
ゼファーの目がまっすぐ俺を見た。
「カイト。お前は風の草原クランの名を背負って走る。勝ち負けの前に------お前自身がどう振る舞うかを見られている」
重い言葉だった。血の約定。作戦。エリカの分析。勝つことばかり考えていた。でもゼファーが伝えたいのはそういうことじゃない。
俺は立ち上がった。
「ゼファーさん」
まっすぐ目を見た。
「風の草原クランの一員として、恥じぬ振る舞いをすることを誓います」
言葉は短かった。でも嘘じゃない。この半年間、このクランで学んだことは馬の乗り方だけじゃなかった。
ゼファーはしばらく俺を見つめていた。やがて------ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
初めて見た。ゼファーの笑顔。
あの寡黙な男が------俺たちを信じてくれた。言葉にはしない。でも分かる。半年かかった。ようやくだ。
タクファーが隣で大きくうなずいた。
「よし。言ったな。男の約束だ」
「ああ。約束だ」
* * *
空気が少し和らいだ。エリカが口を開いた。
「ゼファーさん。ひとつ聞いてもいいですか」
「何だ」
「少し前の夜------見知らぬ人と話していましたよね。何があったんですか」
ゼファーの表情が固まった。一瞬だけ。でも俺は見逃さなかった。
「......ああ。あの男か」
ゼファーは少し間を置いてから話し始めた。
「フードの男が訪ねてきた。鉄の牙との血の約定------ガルダが仕掛けてきた約定を知っていた。そしてこれを渡された」
ゼファーが取り出したのは古びた巻物だった。
「ナクナーレの巻物。血の約定をひとつだけ無効にできる力があるという」
エリカの目が光った。
「血の約定を------無効に?」
「ああ。ただし使いどころは一度きりだ」
俺はエリカを見た。エリカは巻物をじっと見つめている。分析する目だ。
「その男、他に何か言っていましたか?」
「......いや。それだけだ」
ゼファーは目を逸らした。嘘だ。何か隠している。でも今は追及すべきじゃない。エリカも同じことを思ったのだろう。それ以上は聞かなかった。
「ありがとうございます。大事に使いましょう」
ゼファーがうなずいた。
* * *
テントを出た。夜風が冷たい。星が綺麗だ。
「明日だな」
「ええ」
エリカと並んで歩く。草を踏む音だけが響く。
「応援よろしくな」
当然のように言った。だがエリカは首を横に振った。
「私は行かないわ」
「......え?」
「気になることがあるの」
エリカは立ち止まった。夜空を見上げている。
「あの謎の人------フードの男。私、見たことがある」
「どこで?」
「縁日の日。夏祭りの人混みの中で。提灯の光の下にいた男よ」
俺は息を呑んだ。縁日。日本にいた頃の話だ。あの夜------俺たちがこの世界に飛ばされる直前の。
「フードの隙間から見えた目。鋭くて、冷たくて。でもどこか------間が抜けてるような。あの感じ、忘れられない」
エリカの声は静かだった。でも確信に近い響きがあった。
「それに、ナクナーレの巻物。あれが本物かどうか調べたい。知らない人間がくれた道具をそのまま信じるのは危険よ」
『......さすがだ。俺は勝つことしか考えてなかった。エリカはその裏を見ている』
「分かった。任せる」
「任されたわ」
エリカは小さく笑った。
「カイト」
「ん?」
「勝ちなさい。絶対に」
短い言葉。でも重い。ゼファーの伝承。エリカの分析。タクファーの期待。全部背負って走る。
「------ああ。勝ってくる」
俺たちは別れた。明日------風の勇者が始まる。




