第3節「作戦会議」
エリカが動いたのは翌朝だった。
「タクファーさん。一番気の荒い馬を貸してください」
朝食の席で突然そう言った。タクファーは肉を噛んだまま固まった。
「......気の荒い馬?」
「はい。一番なつかない、誰も手を焼いてる馬」
「なぜそんな馬が欲しい」
「勝つためです」
エリカの目は真剣だった。タクファーは俺を見た。俺は肩をすくめた。エリカがこの顔をしているときは止められない。
「一頭だけ心当たりがある。だが------本当に手がつけられん馬だぞ」
タクファーに案内されて厩舎に行った。
風の草原クランの厩舎は広い。数十頭の馬が並んでいる。どれも立派な体格だ。その一番奥------他の馬から離れた場所に、黒い馬がいた。
アルガン。
体格は他の馬より一回り大きい。筋肉が盛り上がっている。毛並みは漆黒で、額に白い星がある。目つきが鋭い。明らかに気性が荒いと分かる顔だ。
「こいつは誰が乗っても振り落とす。世話係にも噛みつく。三年間、誰も手なずけられなかった」
タクファーが言った。
「でも潜在能力は?」
「......正直に言えば、俺の風のメドルより上かもしれん。走らせれば誰よりも速い。問題は走らせることができないだけだ」
エリカの目が光った。
「ちょっと待ってて」
エリカはカイトとタクファーに背を向けた。
「後ろ向いて。耳もふさいで」
『出た。いつものやつだ』
ピンクのめがね。エリカの魔道具。使うたびにこの恥ずかしい儀式が必要になる。俺は素直に後ろを向いた。タクファーは訳が分からない顔をしていたが、従った。
「......おりこうさんになあれ」
小さな声が聞こえた。聞くなと言われても聞こえる。エリカの声が震えている。恥ずかしいのだ。毎回恥ずかしいのだ。分かっている。でも笑ってはいけない。
「いいわよ」
振り向くと、エリカはピンクのめがねをかけていた。顔が赤い。耳まで赤い。
タクファーは目を丸くしていた。
「それは------」
「気にしないでください。さて」
エリカはアルガンの前に立った。めがねをかけたままじっと見つめる。アルガンは鼻を鳴らした。威嚇している。
数秒後。エリカが呟いた。
「この馬、クリルに恋してるわ」
「は?」
俺とタクファーの声が重なった。
「クリルって------あの雌馬か?」
タクファーが指さした先。厩舎の斜め前に繋がれている栗毛の雌馬。おとなしそうな馬だ。
「アルガンはね、あのクリルのことが気になって仕方ないの。でもアルガンは気性が荒いから、クリルの近くに繋がれることがない。ずっと端っこに追いやられてる。それが不満なのよ」
エリカはめがねの奥で目を細めた。
「潜在能力は間違いなくこの厩舎で一番。性格は------まあ、最悪ね。でも弱点がある」
恋。
馬の恋。
『ファンタジー世界に来て馬の恋愛相談をすることになるとは思わなかった』
「カイト。クリルの世話をして」
「は?」
「クリルに懐かれなさい。ブラッシングして、水をあげて、散歩させて。それをアルガンの前でやるの」
「......何のために?」
「交渉材料よ」
エリカの目が怖い。作戦モードだ。
言われた通りにした。クリルは素直な馬で、ブラッシングすると気持ちよさそうに目を閉じた。水を飲ませ、草原を少し歩かせる。全部アルガンの見える場所で。
アルガンの目がこちらを追っている。さっきまでの敵意が消えていた。代わりに------なんだあの目は。嫉妬か。馬って嫉妬するのか。
「いい感じね。じゃあクリルをアルガンの前に連れて行って」
クリルの手綱を引いてアルガンの前に立った。アルガンはクリルを見て鼻を鳴らした。さっきまでとは全然違う鳴き方だ。穏やかだ。甘えているようにすら見える。
俺はハンドサインを使った。この半年で覚えた放牧民の手話だ。馬との会話はできないが、簡単な意思表示はできる。
手を自分の胸に当てる。次にアルガンを指す。そしてクリルを指す。最後に二頭を並べるように手を動かす。
アルガンは俺を見た。じっと見つめている。
「エリカ。どう言ってる?」
「......『本当か? 嘘じゃないだろうな? 嘘ついたら蹴り殺す』って」
『怖えよ』
俺はリンゴを取り出した。タクファーにもらった最上級のリンゴだ。アルガンの鼻先に差し出す。
アルガンはリンゴの匂いをかいだ。一口で食べた。
そして------俺の肩に鼻先を押しつけた。
「......認めたわ。あなたの騎乗を許可するって」
エリカが翻訳した。
タクファーは唖然としていた。
「三年間誰も手なずけられなかった馬を......半日で......」
「利害関係の一致よ」
エリカはめがねを外しながら言った。顔はまだ赤い。
最強の名馬。ダメ騎手。恋する馬。
とんでもないコンビの誕生だった。
* * *
夜。テントの中で作戦会議が始まった。
エリカが地面に棒で線を引いている。コースの地図だ。
「風の勇者のコースは全長百キロ。往路は徒歩で山を越える。宿泊所で一泊した後、復路は騎馬で戻ってくる。総合タイムが一番短い者が優勝」
「うん」
「普通の人間なら往路は二十時間前後。体力を温存しながら走る。でも------」
エリカは俺を見た。
「カイト。この世界に来てから、全然疲れないって言ってたわよね」
「ああ。マジで疲れない。どれだけ走っても息が上がらないんだ」
「無限の体力------」
エリカは何かを計算していた。地面に数字を書き込む。
「もしカイトが全速力で走り続けられるなら、往路の到着は七時間前後。普通の競技者は二十時間。差は十三時間」
「十三時間!? そんなに?」
「でも復路が問題なの。馬術はカイトが一番下手。ここで大幅に追い上げられる」
エリカは棒で復路のラインをなぞった。
「逆算するわ。復路でどれだけ追い上げられても勝てるだけの貯金が必要。トップの騎手と比較して------往路で最低3.5時間の差をつければ、復路で追いつかれても逃げ切れる可能性がある」
「3.5時間か」
「できる?」
「余裕だろ。十三時間差がつくなら------」
「甘いわね」
エリカが釘を刺した。
「計算は最悪のケースで立てるの。途中で何が起きるか分からない。コースの罠、天候、馬の体調。3.5時間は\"最低限必要な差\"よ。楽観してる暇はないわ」
『......さすがエリカだ。甘い見通しは許さない』
「分かった。往路で全力を出して、できるだけ差をつける」
「それでいいわ」
エリカは地面の地図を見つめた。少しだけ口角が上がった。
「勝てるかもしれない」
小さな声だった。でも確かに聞こえた。
エリカが「勝てるかもしれない」と言ったのだ。根拠のない楽観じゃない。データに基づいた結論。
『よし------やるぞ』
俺の無謀な挑戦に、ようやく勝ち筋が見えた。




