第1節「謎の旅人」
数日前のある夜だった。
風の草原クランの野営地に星が降りそそいでいる。見慣れたはずの空だ。でも何度見ても圧倒される。星が近い。手を伸ばせば届きそうなほどに。
俺はテントの入り口に腰を下ろしていた。
隣のテントは静かだ。エリカはまだ起きているのか寝たのか------分からない。こっちは目が冴えて眠れない。
『明日------いや、もう明後日か。評議会の結果が出る』
ゼファーの請願。星の遺跡への立ち入り許可。あの場所にゼファーの覚醒具があるかもしれない。俺たちの旅が前に進むかどうかは、評議会の判断にかかっている。
期待と不安が入り混じる。寝られるわけがない。
ふと、野営地の外れに人影が見えた。
ゼファーだ。見回りをしている。クランの長は夜も忙しい。
もう一つ、影があった。
ゼファーの前に、フードを深くかぶった男が立っていた。
誰だ。クランの人間じゃない。この時間に外部の人間がいるはずがない。
距離がある。声は聞こえない。
俺はテントの中に戻った。何かが引っかかったが、ゼファーのことだ。自分で対処できるだろう。
* * *
ゼファーは野営地の外れで足を止めた。
草の匂いが濃い夜だった。虫の音が遠くで鳴っている。見回りは毎晩の日課だ。クランを守るのは長の務め。十年前、父ゼフトが亡くなってからずっと続けている。
気配を感じたのは一歩前だった。殺気はない。しかし確かにそこにいる。草原の風に紛れて近づいてきた何者か。
「誰だ」
低い声で問いかけた。手は腰の刀に触れている。
闇の中からフードの男が現れた。フードの奥に鋭い目が光っている。だが殺気はない。むしろ穏やかな空気をまとっていた。
「クランの長殿。お話がございます」
流暢な共通語だった。訛りがない。放牧民の言葉ではなく、王都で使われる上品な物言いだ。
「名乗れ」
「旅の者でございます。名乗るほどの者ではありません」
「用件を言え」
ゼファーは刀の柄を握ったまま言った。相手に隙を与えるつもりはない。
旅人は一歩近づいた。
「異世界からお連れになった、二人の若者のことでございます」
ゼファーの目が細くなった。
「何を知っている」
「彼らは災いをもたらす者です」
風が吹いた。草原が波打つ。
ゼファーは黙っていた。言い伝えと同じ言葉だ。古くから放牧民に伝わる------異世界の人間は災いを呼ぶという伝承。それを、この見知らぬ男が口にした。
「どうすればいいと?」
「簡単でございます。彼らを星の遺跡にお連れにならぬことです」
「連れて行けばどうなる」
旅人の声が一段低くなった。
「あなた様のご家族が災難に見舞われます。苦しんで------死ぬでしょう」
沈黙が落ちた。
星だけが音もなく瞬いている。ゼファーの表情は変わらなかった。だが握った刀の柄が白くなっていた。
「貴様の言うことをなぜ信じねばならん」
「信じなくても結構です。ただ------」
旅人は間を置いた。まるで相手の心を読んでいるかのように。
「あなた様は今、鉄の牙のガルダより血の約定を突きつけられておいでだ」
ゼファーの眉が動いた。ほんのわずか。しかし旅人はそれを見逃さなかった。
「あの約定が正当なものでないことくらい、ご承知のはず。無理やり結ばされた契約です」
知っている。ゼファーは歯を食いしばった。ガルダとの血の約定------風の勇者でゼファー側が負ければ、星の遺跡の管理権を鉄の牙に明け渡す。あの男が父ゼフトに何をしたかを知るゼファーにとって、それは到底飲めない条件だった。しかし血の約定を一方的に破れば、クラン全体の名誉が失われる。
「これをお受け取りください」
旅人が懐から巻物を取り出した。古い羊皮紙。見たことのない紋様が刻まれている。
「『ナクナーレの巻物』でございます。この世界で一度だけ------血の約定を\"なかったこと\"にできます」
ゼファーは巻物を見つめた。受け取りはしない。
「なぜそのようなものを持っている」
「純粋な保険とお考えください。タクファー様が優勝されることは目に見えております。万が一の備えです」
旅人は巻物をゼファーの足元に置いた。
「くれぐれも------あの二人にはご注意を」
フードの男は背を向けた。足音もなく闇に溶けていく。
ゼファーはしばらく動かなかった。
風が巻物の端をなびかせている。拾えば取引を認めたことになるかもしれない。だが放置すれば、万が一の備えを失う。
家族の顔が浮かんだ。
やがて巻物を拾い上げた。手が震えているのは寒さのせいだけではなかった。
* * *
同じ頃。
エリカもまた眠れずにいた。
テントの中で寝返りを繰り返していたが、諦めて外に出た。評議会のことが頭から離れない。ゼファーの請願が通るかどうか。星の遺跡の古代語の記述。考え始めると止まらない。
テントから少し離れた丘に腰を下ろした。この世界の夜空は見飽きない。星座を一つずつ数えていると、いつの間にか時間が経つ。
『あの星座、地球のものとは全然違う......帰ったら星図に記録しなきゃ』
そんなことを考えていた時だった。
視界の端に動きがあった。
ゼファーだ。野営地の外れにいる。誰かと話している。
エリカは目を凝らした。暗くてよく見えない。相手はフードを深く被っている。ゼファーに何かを渡しているようだった。
やがてフードの男が立ち去った。
そのとき------フードの隙間から鋭い眼光がちらりと見えた。
エリカの背筋に冷たいものが走った。
『あれ? どっかで見たことがある......?』
どこだっけ。いつだっけ。
夏の夜。人混み。提灯の光------
記憶の糸をたぐる。しかし掴みかけた瞬間にするりと抜ける。遠い記憶のように近くて遠い。
『......気のせいかな』
エリカは首を振った。冷えた体を抱きしめるようにしてテントに戻った。
記憶の糸は、まだ繋がらなかった。




