第10節「血の約定の真偽」
王都の裁判所は石造りの大きな建物だった。
高い天井。壁に刻まれた放牧民の紋章。中央に円形の広間があり、石の段差が取り囲んでいる。評議員たちが上段に座り、下の広間で当事者が向かい合う。闘技場のような構造だ。
ゼファーが中央に立っていた。右側にタクファー。俺とエリカはその後ろに控えている。
向かい側にガルダ。昨日と同じ余裕の顔。腕を組んで、にやにやしている。その後ろに鉄の牙の部下が三人。全員が大柄で、目つきが悪い。
評議員は七名。上段の石椅子に並んでいる。その中央の椅子だけが空いていた。
「では------血の約定の真偽を検証する」
評議員の一人が立ち上がった。白い髭の老人。ボルカという名だとエリカが耳打ちしてくれた。評議会の書記官で、法の番人と呼ばれているらしい。
ボルカが羊皮紙------血の約定を広間の中央に置いた。石の台の上に平たく広げる。古びた革の匂いが漂う。赤黒い血判が二つ。ゼフトの名とガルダの名。
「判定の雫を使う」
ボルカが小さな瓶を取り出した。透明な液体が入っている。ガラスのように澄んだ瓶。
「判定の雫は血の約定の正当性を検証する放牧民の伝統的な法具だ。正当な約定には白く。不当な約定には黒く変化する」
エリカが小声で「化学反応なのか魔法なのか......」と呟いていた。このタイミングでそれを考えるのがエリカだ。
ボルカが瓶を傾けた。
一滴。透明な液体が羊皮紙の上に落ちる。
沈黙。
広間中の目が羊皮紙に集中した。
液体が白く輝いた。羊皮紙の上で真珠のように光る。
ガルダが声を上げた。
「見ろ! 白だ! この約定は正当だ!」
勝ち誇った声。評議員たちがざわめく。ゼファーの拳が握りしめられた。
「ゼファー殿。判定の雫は白を示した。この約定は------」
ボルカが言いかけた時だった。
白く光っていた液体が、じわりと濁り始めた。端の方から灰色に。そして------黒。
真っ黒な染みが羊皮紙の上にまだら模様で広がっていく。染みが半分くらいまできたところで止まった。
広間が静まり返った。
「......なんだと」
ガルダの顔から笑みが消えた。
「これはなんだ」
ボルカが声を上げた。老人の目が見開かれている。
「最初は白------だが、後から黒に変化した。これは------」
評議員たちが身を乗り出す。
「このようなことは初めてみた。」
ボルカの声が広間に響いた。
エリカが俺の腕を掴んだ。「やっぱり」と唇が動く。
つまり血判は本物だ。ゼフトの血で押されている。だが------その過程に問題があった。おそらく毒を盛られて意識を奪われた状態で押させた。それで判定がゆがんだのだ。
「待て!」
ガルダが叫んだ。顔が赤い。額に汗が浮いている。
「最初に白に変化したのだからこれは正当だ! 後から変わっただけではないか!」
声が裏返っている。さっきまでの余裕はどこにもない。
「ガルダ殿。確かに最初に判定は白だった。しかし判定の終わりは白ではない。このことは審議が必要だ。」
ボルカが冷静に返した。
「そんな馬鹿な------十年前の正当な約定だぞ! わしとゼフト殿が合意して------」
「合意?」
ゼファーの声が割って入った。
低い。地鳴りのような声。広間の空気が震えた。
「父は------毒を盛られて意識がない状態で血判を押させられた。それが合意か」
ゼファーが一歩前に出た。腰の剣に手をかけている。
「ガルダ」
名を呼んだ。敬称なし。殺気が剥き出しだ。
「貴様が父を殺した。十年前からわかっていた。------証拠がなかっただけだ」
もう一歩。
ガルダが後ずさった。顔が青ざめている。大きな体が------縮んだように見えた。
「ま、待て。ゼファー------話し合おう------」
「話し合い? 十年遅い」
ゼファーが剣を抜きかけた。
「そこまでだ」
声が降ってきた。
上段の中央------空いていた椅子に、いつの間にか男が座っていた。
白髪の偉丈夫。年齢は六十を超えているだろう。だが背筋はまっすぐで、目に力がある。質素だが仕立ての良い衣を纏い、腰に古い剣を帯びている。存在感が------この広間の全員を圧倒していた。
「放牧王......カンダール」
ボルカが頭を下げた。評議員たちが一斉に立ち上がる。
放牧王。放牧民の国の頂点に立つ男。評議会の長。
「座れ、ゼファー」
穏やかな声だった。だが逆らえない重みがある。ゼファーが------剣から手を離した。唇を噛んでいる。
「ガルダ。お前もだ」
ガルダは------もう立てなかった。しりもちをついたまま、放牧王を見上げている。ゼファーの殺気と放牧王の威圧で、完全に腰が抜けたらしい。
カンダールが立ち上がった。ゆっくりと階段を降りてくる。
「判定の雫は白から黒に変わった。形式は正当だが過程に疑義がある。これでは裁定が難しい」
広間を見回す。全員がカンダールの言葉を待っている。
「------そこでだ。提案がある」
カンダールの目がゼファーとガルダを交互に見た。
「一ヶ月後の風の勇者。両クランの競技者の順位で決着をつけてはどうか」
風の勇者。草原大耐久競走。
「鉄の牙クランの競技者が風の草原クランの競技者より上位であれば------約定に従い、財産を引き渡す」
ガルダの顔に一瞬だけ期待が浮かんだ。だが------
「風の草原クランの競技者が上位であれば------約定は無効。以後、鉄の牙はこの件で一切の請求を行わない」
カンダールの声に温かみはない。公平な裁定者の声だ。
「どうだ。両者とも」
ゼファーが顔を上げた。迷いはなかった。
「受ける」
一言。タクファーは昨年の勇者だ。優勝候補筆頭。負ける理由がない。
全員の視線がガルダに集まった。
評議員たちの目。ボルカの目。ゼファーの目。タクファーの目。------そして放牧王カンダールの目。
四方から圧が迫る。逃げ場はない。判定の雫は黒を示した。この場でガルダに味方する者は一人もいない。
ガルダは震えていた。
大きな体が------情けないほどに震えていた。
「......わかった」
絞り出すような声。
「風の勇者で------決着をつける」
カンダールが頷いた。
「では新たな血の約定を結べ。旧約定はこの場で合意のもと破棄する」
ボルカが新しい羊皮紙を広げた。ゼファーが迷いなく血判を押す。ガルダは------手が震えて、三度失敗してからようやく押した。
新しい約定が結ばれた。
旧約定の羊皮紙はボルカが預かった。
ガルダが立ち上がった。
足元がふらつく。部下に支えられて、逃げるように広間を出て行った。振り返らなかった。振り返る余裕もなかったのだろう。
俺はその背中を見送った。
ゼファーが深く息を吐いた。
十年分の怒りが------少しだけ、ほんの少しだけ軽くなったように見えた。
裁判所を出た。
昼の陽射しが眩しかった。王都の喧騒が耳に戻ってくる。
「一ヶ月だ」
ゼファーが空を見上げて言った。
「一ヶ月後の風の勇者で------決着をつける」
タクファーが頷いた。静かだが、揺るぎない目をしていた。
俺はまだ何も言えなかった。
でも------胸の中で、何かが動いていた。風の勇者。百キロの過酷なレース。馬と騎手の絆。
『俺も------出たい』
まだ誰にも言えない。馬との絆なんてない。ゼファーには無理だと言われた。でも------。
タクシマルの笑顔が浮かんだ。ソクタンの優しさ。ゼファーの震える拳。タクファーの深い礼。
このクランのために------俺にできることがあるなら。
風が吹いた。
草原の匂いがした。
**第6章「末裔の印」 了**




