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第9節「(回想)ゼフトの謝罪と死」


 その夜。


 ガルダが去った後、長老たちは険しい顔で退席していった。タクファーとソクタンもタクシマルを寝かしつけに戻った。テントに残ったのは俺とエリカ、そしてゼファーだけだった。


焚き火の残り火がちろちろと揺れている。テントの中は薄暗い。


ゼファーは座ったまま動かなかった。拳の血は拭いたが、掌にはまだ爪の跡が赤く残っている。


俺もエリカも黙っていた。何を言えばいいかわからなかった。


長い沈黙の後------ゼファーが口を開いた。


「......聞きたいか」


 低い声。こちらを見ていない。焚き火の残り火を見つめている。


「十年前に何があったのか」


 俺は頷いた。エリカも小さく頷く。


ゼファーは一度だけ深く息を吐いた。そして------語り始めた。


「十年前、うちの風の草原クランの若い者が鉄の牙の名馬を殺した。事故だった。馬の扱いに不慣れな若者が、暴れた馬を止められなかった」


 声に感情がない。事実だけを述べている。


「父------ゼフトは族長として謝罪に赴いた。名馬一頭と羊十頭で弁償すると申し出た。それで十分な額だった。いや、多すぎるくらいだ」


 ゼファーの目が細まった。


「父はそういう男だった。過ちは正面から償う。頭を下げることを恥とは思わない。実直で------」


 言葉が途切れた。


一拍置いて、続ける。


「------わしに似ていると、よく言われた」


 俺は黙って聞いていた。エリカも板を膝に置いたまま、じっとゼファーを見ている。


「ガルダは弁償を受け入れた。愛想よくな。『風の草原クランの族長の頼みなら合意だ。ただし血の約定を結んでくれ』と。父は違和感を覚えたそうだ。名馬一頭の弁償ごときで血の約定を持ち出すのは異常だ。だが------自分の部下が相手の名馬を殺したのは事実。断る理由もなかった」


 ゼファーの声が低くなった。


「約定を準備する間に食事を勧められたらしい。断ったが------無理に勧められたと言っていた。放牧民の掟では、客人の食事を拒むのは侮辱にあたる。父はやむなく従った」


 焚き火の火が揺れた。風が吹き込んだのか。


「食事の後、父上は気分が悪くなった。視界がぼやけ、体が動かない。------おそらく毒だ。食事に毒が盛られていた」


 エリカが息を呑んだ。


俺の拳が勝手に握りしめられていた。


「意識が朦朧とする父に、ガルダは羊皮紙を差し出したらしい。『たいした約定ではない。さっさと結んでしまおう。ここに血を』------といわれ父は何が書かれているかも読めない状態で血判を押させられた。と言っていた」


 ゼファーの声が震えた。------初めてだった。この男の声が震えるのを聞いたのは。


「父は解放された後もふもとまでしか歩けなかった。迎えに行った時------」


 言葉が止まった。


数秒の沈黙。焚き火がぱちりと爆ぜた。


「......抱き上げたら、羽のように軽かった。あの頑丈な父が------子供のように軽かった」


 ゼファーの目が赤い。酒のせいではない。


「数週間、意識が戻らなかった。薬師があらゆる手を尽くしたが------毒の種類がわからなかった。そして------」


 ゼファーは言わなかった。


言わなくてもわかった。


ゼフトは死んだ。


十年前。毒を盛られて、意識が戻らないまま。


「わしはガルダを殺しに行こうとした」


 静かな声だった。怒りを通り越した、澄んだ声。


「評議会に訴えた。父は毒殺されたと。だが------証拠がなかった。食事に何が盛られていたか証明できなかった。評議会は『証拠がなければ裁けない』と」


 ゼファーの拳が再び握りしめられた。


「十年だ。十年間------わしはこの無念を抱えて生きてきた」


 テントの中が静まり返った。


焚き火の最後の火が消えかけている。薄い煙が天井に向かって昇っていく。


俺は------何も言えなかった。


「大丈夫です」なんて軽い言葉は出てこない。「許せませんね」も違う。ゼファーの十年はそんな一言で収まるものじゃない。


エリカが静かに口を開いた。


「ゼファーさん。その約定------偽造の可能性は?」


 冷静な声。でも------エリカの手も震えていた。怒っているのだ。この子は怒ると声が逆に静かになる。


「わからん。父の血判は本物に見えた。だが------あの状態で押されたものなら------」


「意識のない人間に押させた血判が、正当な契約として認められるべきではないわ」


 エリカの声に力がこもった。


「証拠はまだ探せる。十年前でも------方法はあるはず」


 ゼファーがエリカを見た。


長い視線。何かを量るような目。


「......お前たちに、これ以上迷惑はかけられん」


「迷惑じゃないです」


 声が出ていた。俺の声だ。


「俺たちは------半年間、このクランで暮らしてきました。飯を食わせてもらって、テントで寝かせてもらって、タクシマルと走り回って」


 言葉が勝手に出てくる。


「家族みたいなもんです。家族が困ってるなら------黙ってられるわけないでしょ」


 ゼファーは何も言わなかった。


ただ------その目が、ほんの少しだけ潤んだように見えた。


 焚き火が消えた。


 テントの中は暗闇に包まれた。でも------三人の間には、何か温かいものが残っていた。


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