第8節「鉄の牙ガルダの訪問」
王都グランドールが見えた。
丘の上から望む巨大な都市。石造りの城壁。その向こうに広がる建物の群れ。放牧民の国の中心地。商業都市サラザルクとは比べものにならない規模だ。
クランの者たちが歓声を上げた。長い旅路の終着点。城壁の外側に広がる草原に、すでにいくつものクランが野営している。色とりどりの旗が風にはためいていた。
風の草原クランは郊外の一等地に陣を張った。最古のクランとしての特権らしい。テントが次々と立ち上がる。馬が嘶く。羊が草を食む。ここに数ヶ月は滞在する。風の勇者は一ヶ月後だ。
「王都ってすごいのね。人口は------」
「エリカ、今はいいから」
「三万から五万と推定してるの」
「聞いてないって」
エリカは無視して板に書き込んでいた。
――到着から三日目の昼。
それは突然だった。
「ゼファー様! 鉄の牙クランの族長ボルカ殿がきています」
見張りの声がテントに響いた。
ゼファーの手が止まった。弓の手入れをしていた手が------ぴくりと震えた。
俺は見逃さなかった。
あの鉄のような男の手が震えるのを初めて見た。怒りなのか。恐怖なのか。
「......通せ」
低い声。いつもより------ずっと低い。
テントの幕が開いた。
入ってきたのは巨漢だった。ゼファーよりも一回り大きい。肩幅が広く、首が太い。目が小さくて、笑っているように見えるが------笑っていない。牛のような体格の男。腰には派手な装飾の剣を帯びている。
空気が変わった。
テントの中の温度が三度は下がった気がした。
「久しぶりだな、ゼファー」
馴れ馴れしい声。歩き方にも余裕がある。自分が歓迎されていないことをわかった上で、楽しんでいる顔だ。
ゼファーは立ち上がらなかった。座ったまま、ガルダを見上げている。
「------何の用だ」
声に温度がない。温泉で酔っぱらっていた男とは別人だ。殺気。それに近い何かが、ゼファーの全身から滲んでいた。
タクファーがゼファーの斜め後ろに立った。腕を組んでいる。父を守るような配置だ。
エリカが俺の袖を引いた。小声で「鉄の牙クラン。ソクタンが言ってた------」。
ああ。評判の悪い新興勢力。強引で乱暴。ソクタンが露骨に嫌な顔をしたクラン。
ガルダは懐から革の巻物を取り出した。
古びた羊皮紙。端が黒ずんでいる。血の跡がある。
「十年前------わしはおぬしの父、ゼフト殿と血の約定を結んだ」
血の約定。
放牧民の最も重い誓約だとエリカから聞いている。互いの血で署名する契約。破れば一族ごと追放される。
ゼファーの目が細くなった。
「血の約定だと?」
「そうだ。ここに契約書がある」
ガルダが巻物を広げた。
黄ばんだ羊皮紙に、赤黒い文字が並んでいる。下部に二つの血判。片方はガルダのもの。もう片方は------
「......父上の、血判」
タクファーが呟いた。ゼフトの名前が血で書かれている。
ゼファーの拳が震えた。
「内容を読め」
ガルダが促す。にやにやしている。
エリカが巻物を覗き込み------顔色が変わった。
「カイト。これ------」
小声で教えてくれた内容は、信じられないものだった。
全財産の譲渡。クラン民の奴隷化。
そんな約定を------ゼファーの父が結んだというのか。
「馬鹿馬鹿しい」
ゼファーが吐き捨てた。
「父がそんな約定を結ぶはずがない」
「しかし血判は本物だ。確認してみろ」
ガルダの声に余裕がある。この男は------最初から勝つ気でここに来ている。
「十年前、風の草原クランの者が我がクランの名馬を殺した。覚えておるだろう。その件でおぬしの父ゼフトが謝罪に来た。その時に結んだ約定だ」
ゼファーの体が強張った。
覚えている。その事件を------ゼファーは忘れるはずがない。
十年前。
父ゼフトは鉄の牙のテントに謝罪に赴いた。名馬を殺してしまった責任を取るために。そして------帰ってきた時には体調を崩していた。意識が朦朧とし、数週間後に息を引き取った。
ゼファーは確信していた。
父は殺された、と。
だが証拠はなかった。評議会に訴えたが、「証拠がなければ裁けない」と却下された。あれ以来------ゼファーの目の奥に、消えない炎がある。
「期限は明日だ。約定に従い、全財産を引き渡してもらおう」
ガルダが言い放った。
「拒否すれば------血の約定を破ったことになる。評議会にも訴え出るつもりだ」
テントの中が凍りついた。
長老たちが顔を見合わせている。血の約定の重さを知っている者たちの顔。
ゼファーは黙っていた。
拳を握りしめて------震えて------それでも口を開かなかった。
ガルダが踵を返した。テントを出る直前に振り向いて、笑った。
「楽しみにしているぞ、ゼファー」
幕が閉じた。
足音が遠ざかっていく。
テントの中に沈黙が残った。
焚き火がぱちぱちと爆ぜる音だけが響く。
ゼファーの拳から、血が滲んでいた。爪が掌に食い込んでいる。
「......父上は、あんな約定を結ぶ人ではない」
タクファーが静かに言った。
ゼファーは答えなかった。
ただ------その背中は、怒りで軋んでいた。




