第7節「タクシマル咬まれる」
王都まであと半月。
山岳地帯に入り、道は狭くなった。馬車は一列でしか進めない。岩肌が両側にせり出し、頭上に青空が細長く覗く。
タクシマルが馬車の荷台から降りて、草むらで遊んでいた。いつものことだ。あの子は座っていられない。
「タクシマル、あまり離れちゃダメよ」
ソクタンの声が飛ぶ。タクシマルは聞いているのかいないのか、草をちぎっては放り、蝶を追いかけている。
俺は馬車の横を歩いていた。エリカは荷台で本を読んでいる。穏やかな午後。風が涼しい。
「きゃあああ!」
タクシマルの声。
体が動いた。考えるより先に足が地面を蹴っていた。
草むらに駆けつける。タクシマルがうずくまっていた。左腕を押さえて泣いている。顔が真っ白だ。
腕を見た。二つの牙痕。血が滲んでいる。
「何に咬まれた?!」
タクシマルは泣くばかりで答えられない。
草むらの奥で何かが跳ねた。ぴょん、ぴょんと------カンガルーのように。蛇だ。蛇がカンガルーのように跳ねて逃げていく。
見たことのない生き物。長い体に短い後ろ足がついている。跳躍するたびに鱗が光った。
「カンガルー蛇......!」
エリカの声が背後から飛んできた。荷台から飛び降りたらしい。
「カンガルー蛇って何だ!」
「毒蛇よ! 非常に珍しい種で------毒が強い!」
タクシマルを抱き上げた。軽い。ぐったりしている。泣き声が弱くなっていく。
「しっかりしろ、タクシマル!」
------目を開けてくれ。
タクファーが走ってきた。顔から血の気が引いている。ソクタンも。馬車が次々と止まる。クランの者たちが集まった。
「タクシマル!」
タクファーが息子を受け取った。大きな手が小さな体を抱きしめる。
薬師が駆けつけた。白い髭の老人だ。タクシマルの腕を調べ、瞳孔を確認し------顔を曇らせた。
「カンガルー蛇の毒だ」
周囲が静まり返った。
「二十四時間以内に『灼熱草』を煎じて飲ませなければ------死ぬ」
灼熱草。
聞いたことがない。薬師の説明では、火山や温泉の近くに群生する特殊な薬草だという。解毒に効く唯一の植物。
問題は------この辺りにはないということだ。
「一番近い群生地は南方の温泉台地。ここからでは往復で三日はかかる」
三日。
タクシマルに残された時間は二十四時間。
誰かが息を呑んだ。ソクタンがタクシマルの手を握って震えている。
「待って」
エリカの声だった。
しゃがみ込んで、板------筆記具に何かを書きなぐっている。目が動いている。記憶を辿っているのだ。
「南方じゃなくて------西。西方の山岳地帯の温泉地域」
エリカが顔を上げた。
「王院図書館で読んだの。灼熱草は温泉の硫黄成分と高地の気圧が重なる場所に群生する。南方だけじゃない。この山岳地帯を西に------銀嶺の湯のさらに奥、頂上付近の温泉池の周辺に採取記録がある」
薬師が目を見開いた。
「そんな記録が------」
「あったのよ。百年以上前の調査記録だけど」
エリカの声に迷いはなかった。
「距離は?」
俺が聞いた。
「ここから西へ------往復でおよそ六十キロ。山道だからもっとかかる。普通なら丸一日以上------」
普通なら間に合わない。
でも------。
「俺が行く」
立ち上がった。
全員の視線が集まる。
「無理だ」
薬師が首を振った。
「あの山道を人の足で往復六十キロなど------」
「俺なら間に合う」
声が出ていた。自分でも驚くほど落ち着いた声だった。
「信じてくれ」
タクファーと目が合った。
この男の息子が死にかけている。父親の目。恐怖と焦りと------それでも何かを信じようとする目。
「......わかった」
タクファーが立ち上がった。
「馬でふもとまで送る。そこから先は------頼んだ」
頷いた。
タクシマルの顔を見た。小さな体が苦しそうに震えている。汗が額に浮いている。さっきまで「カイト兄ちゃん、遊ぼう」と笑っていた顔が------こんなに弱々しくなっている。
『待ってろ。絶対に戻ってくる』
タクファーの馬に飛び乗った。馬が嘶く。タクファーが手綱を取り、一気に駆け出した。
山道を風のように駆ける。タクファーの馬は速い。「馬神」と呼ばれる男の愛馬だ。岩場を苦にしない。蹄が石を蹴り、火花が散る。
ふもとに着いた。ここから先は馬では登れない。急勾配の岩山。獣道すらない。
「行ってくる」
馬から飛び降りた。タクファーが何か言いかけた。でも------言葉にならなかったらしい。ただ深く頭を下げた。
走った。
岩を掴み、崖をよじ登り、走った。
息が切れない。足が止まらない。この体はそういうふうにできている。覚醒が俺に与えたのがこの体力なら------今こそ使う時だ。
二時間。三時間。
標高が上がる。空気が薄くなる。普通なら息が苦しいはずだ。でも俺の肺は平然と動いている。
岩が湿り始めた。硫黄の匂い。近い。温泉池が近い。
頂上付近の小さな温泉池。湯気が立ち昇る岩場の隙間に------赤い草が群生していた。触ると熱い。まるで炎のように熱を持った草。
灼熱草。
根元から引き抜く。手が焼けるように痛い。構わない。布で包んで背中に括りつけた。
『よし------帰るぞ』
来た道を駆け下りる。下りは速い。重力に身を任せて、岩を飛び越える。何度か滑った。膝を打った。痛みはあるけど、足は止まらない。
ふもとに戻った時、タクファーがまだ立っていた。待っていてくれた。
「------あったのか」
「あった」
馬に飛び乗る。タクファーが手綱を握った。来た時よりも速い。馬も何かを感じ取っているのか、限界を超えた走りを見せた。
テントに戻ったのは、出発から約十時間後。
夜明け前だった。空がうっすらと白みかけている。
タクシマルは------まだ生きていた。
薬師が灼熱草を受け取り、手早く煎じ始めた。焚き火の上で鍋がぐつぐつと煮える。赤い液体。独特の匂いが広がる。
ソクタンがタクシマルの頭を支え、少しずつ飲ませた。
タクシマルの顔に血色が戻り始めた。呼吸が穏やかになる。汗が引く。小さな手がぎゅっとソクタンの指を握った。
「......カイ、兄ちゃ......」
寝ぼけたような声。
目は閉じたまま。でも------口元が少しだけ笑っていた。
膝から力が抜けた。
地面に座り込んだ。手が震えている。------怖かった。間に合わなかったらどうしようと、走っている間ずっと考えていた。
タクファーが俺の前に立った。
何も言わずに------深く、深く頭を下げた。放牧民の最上位の礼。クランの次期長が、余所者の少年に頭を下げている。
ソクタンが泣いていた。タクシマルを抱きしめて、声を殺して泣いていた。
空が白んでいく。
朝の光が山の端から差し込んだ。冷たい風が汗を冷やす。
疲れはなかった。体はまだ走れた。




