第2節「銀嶺の湯」
山を越えた。
風の草原クランの行軍は三日間続いた。草原から岩場に変わり、空気が冷たくなる。標高が上がるにつれて羊たちの足取りも重くなった。
盆地に降りたとき、ゼファーが珍しく声を上げた。
「------着いたか」
目の前に湯気が立ち昇っている。
岩の隙間から白い煙がもうもうと噴き出していた。硫黄の匂い。鼻の奥がつんとする。
温泉だ。
「銀嶺の湯」
ソクタンが教えてくれた。
「放牧の民がよく使う公共の温泉よ。この辺りを通るクランはみんな立ち寄るの」
「温泉......」
その言葉が脳に染み渡った。
温泉。風呂。湯。
------半年ぶりだ。
この世界に来てから、まともに体を洗った記憶がほとんどない。川で水浴びはした。でも川の水は冷たい。冷たすぎる。日本にいた頃は毎日シャワーを浴びていたのに。あの湯気の立つ浴室が恋しくて仕方なかった。
「カイト、エリカ。あなたたちのいた国でも温泉は盛んだったと聞いたわ」
ソクタンがにっこり笑う。
「一緒に行きなさいな。ゼファーも------ねえ?」
ゼファーに目を向けた。
クランの長は腕を組んだまま、湯気の立つ岩場をじっと見つめていた。その目が------ほんの少しだけ輝いている。
気のせいじゃない。あれは楽しみにしている顔だ。
『ゼファーさん、温泉好きなのか......?』
意外すぎる。実直で厳格なクランの長。威厳の塊みたいな人。それが温泉で目を輝かせている。
「......入れ」
ゼファーが短く言った。
「え、いいんですか?」
「タクシマルを助けた礼だ。息子のタクファーも来る」
二度目のタクシマル救出。
数ヶ月前、タクシマルが馬から落ちかけたのを咄嗟に掴んだことがあった。あのときゼファーは黙って頷いただけだったけど------ずっと覚えていたのか。
エリカはソクタンと女湯へ向かった。「日本の温泉マナーとどう違うか比較するわ」と目を光らせていた。あいつはどこに行ってもデータを取る。
男湯は山の中腹を削った露天風呂だった。
岩を積み上げた湯船。白く濁った湯。湯気の向こうに夕焼けが広がっている。
服を脱いで湯に足をつけた。
------熱い。けど、いい熱さ。
ゆっくり肩まで沈む。
『うおお......最高......』
体の芯まで温まる。半年分の疲れが溶けていくようだった。岩に頭を預けて、空を見上げた。二つの太陽が山の端に沈みかけている。オレンジと赤紫の空。湯気がゆらゆらと立ち昇って、景色が揺れる。
『異世界の温泉......悪くない』
日本の温泉とは全然違う。脱衣所もないし、桶もない。シャンプーなんて当然ない。でも------この湯の温かさは同じだ。なんだか少しだけ、故郷に帰った気分になった。
ざぶん。
大きな音。
ゼファーとタクファーが入ってきた。
『------でかい』
二人とも体格がすさまじい。ゼファーは四十五歳とは思えない筋肉の厚み。腕も胸も岩のようだ。傷跡がいくつもある。古い傷、新しい傷。戦いの記録が体に刻まれている。
タクファーは父親譲りの長身に加えて、さらに引き締まった体をしている。「馬神」の異名は伊達じゃない。
二人が湯に浸かっただけで、水位が目に見えて上がった。
『圧がすごい。銭湯で力士に挟まれた気分だ』
ゼファーが目を閉じて湯に沈んだ。深い息を吐く。
タクファーも同じように目を閉じる。
静寂。
湯の音だけが響く。
------しばらくして、ゼファーが口を開いた。
「......いい湯だ」
その声に、ほんのわずかに甘さがあった。
クランの民の前では絶対に見せない顔。鉄のような男が、湯の中で力を抜いている。
『やっぱり好きなんじゃん、温泉』
タクファーがちらりとこちらを見て、口元だけで笑った。
------知ってるのか。父親のこの顔を。
三人で黙って湯に浸かる。
言葉は要らなかった。湯気と夕焼けと硫黄の匂い。それだけで十分だった。




