第1節「放牧民の日々」
草原が揺れる。
見渡す限り、緑。地平線まで続く草の海を風が撫でていく。空には二つの太陽。もう見慣れた。この世界に来て半年が経った。
半年------いや、こっちの暦だと四ヶ月くらいか。
放牧民の世界は日本とは時間の数え方が違う。ひと月は四十五日。一週間は九日。最初は混乱したけど、今ではもう体に馴染んでいる。曜日の感覚なんてとっくに捨てた。
朝は羊の声で目が覚める。昼は馬の世話。夜はテントの中で焚き火を囲む。そういう生活だ。
風の草原クラン。
放牧民の中でも最も歴史のあるクランのひとつ。ゼファーが率いる、誇り高い遊牧の一族。定住しない。草原を移動しながら羊を追い、馬を育てる。
今は商業都市サラザルクを出て、王都グランドールへ向かっている途中だった。年に一度の大競技会------「草原大耐久競走」。別名「風の勇者」。ゼファーの息子タクファーが出場するらしい。クラン中が浮き足立っていた。
「カイト兄ちゃん!」
来た。
背中にどすんと衝撃。振り返るまでもない。タクシマルだ。
「遊ぼう!」
「おう、いいぞ」
「肩車!」
「はいはい」
三歳児を肩に乗せる。軽い。
こいつは朝から晩まで走り回る生き物だ。起きた瞬間から全力。寝る直前まで全力。エネルギーの塊。放牧民の大人たちですら手を焼く暴れっぷり。なのに俺のところに来る。毎日来る。
「走って!」
「どっちに?」
「あっち!」
小さな指が草原の果てを指す。
------いいよ。走ってやる。
駆け出した。肩の上でタクシマルがきゃあきゃあ笑う。風を切る。草を蹴る。心臓の音が心地いい。
------速い。
自分でも驚くほど足が動く。
百メートル。二百メートル。五百メートル。
息が切れない。
『......やっぱり、おかしい』
日本にいた頃を思い出す。体育の持久走。二周目でゼーハーしてた。エリカに「運動不足よ」って呆れられたっけ。あの頃は五百メートルも走れば膝に手をついていた。
今は------肩に三歳児を乗せたまま一キロ走っても平気だ。
汗もかかない。心拍数も上がらない。
『これが......覚醒の影響か』
第四章で覚醒した日。勾玉が光って、体中に何かが流れ込んできた感覚。あれ以来、何かが変わった。具体的に何がどう変わったのかは正直よくわからない。でも------体力だけは確実に化け物になっている。
「もっと速く!」
「わがままだな、おまえ」
タクシマルの頭をぽんと叩く。
こいつと走り回る日々も悪くない。最初の頃は大変だったけど。
------思い出すだけで笑える。
この世界に来たばかりの頃、俺とエリカは完全に浮いていた。テントの張り方がわからない。馬に近づいたら蹴られた。羊の群れに突っ込んで大パニックを起こした。
見よう見まねで手伝う毎日。失敗しては笑われ、教えてもらってはまた失敗する。それでも少しずつ覚えた。テントの紐の結び方。馬の鞍の置き方。羊の追い込み方。
半年経った今では、一人前とは言わないけど足手まといではなくなったと思う。たぶん。
「カイト兄ちゃん、降りる!」
タクシマルが肩から飛び降りた。着地して、すぐに走り出す。こっちを見て手招きする。
「追いかけっこ!」
「......おまえ、体力どうなってんだ」
放牧民の子供は元気だ。三歳とは思えない。都会の子供なら昼寝の時間だろう。こいつは寝ない。走る。叫ぶ。転ぶ。泣かない。また走る。
追いかけた。
草原を二人で走り回る。タクシマルが笑う。俺も笑う。風が気持ちいい。
------いつまでも走れる気がした。
「あら」
声がした。振り返ると、ソクタンが水瓶を抱えて立っていた。タクファーの妻で、タクシマルの母親。気さくで面倒見がいい。エリカとはすぐに仲良くなった。
「あなた、本当に体力があるのね」
ソクタンが目を丸くしている。
「タクシマルについていける大人なんて初めて見たわ。うちの者たちでも半刻で音を上げるのに」
半刻は------こっちの時間でだいたい一時間くらい。
言われてみれば、もう二時間近く走っている。それなのに息ひとつ乱れていない。
「まあ、走るのは嫌いじゃないんで」
「嫌いじゃないで済む体力じゃないわよ」
ソクタンは笑いながら首を振った。
遠くから、聞き慣れた声が飛んでくる。
「カイト!」
エリカだ。
荷馬車の上から手を振っている。隣にはソクタンの分の水瓶が積んであった。最近のエリカは荷物の整理係をよくやっている。分析力を活かして積載効率を上げたらしい。放牧民に「無駄がない」と褒められてご満悦だった。
「あんた、朝からどれだけ走ってるの!」
「知らね。タクシマルに聞いてくれ」
「タクシマルに聞いて正確な答えが返ってくるわけないでしょ」
正論だった。
エリカが荷馬車から降りてくる。手元には小さな板------この世界の筆記具だ。何か書き込んでいる。
「ちょっと、止まって。脈を測らせて」
「は?」
「データよ、データ。あんたの体力、明らかに異常だから。一ヶ月前から記録してるの」
「怖いな」
エリカは俺の手首を掴んだ。真剣な目。
十秒ほど数えて、板に書き込む。
「......安静時と変わらない。二時間走って、心拍数が上がってない」
「そりゃ体力あるだけだろ」
「体力の問題じゃないの」
エリカの声が少しだけ低くなった。
「覚醒前と覚醒後で、あんたの身体能力は明確に変わってる。日本にいた頃の持久走タイム覚えてる?」
「覚えてねえよ」
「七分十二秒。クラスで上から三番目。それが今は三歳児と二時間走っても汗ひとつかかない」
なんで俺の持久走タイムまで覚えてるんだ。
いや、こいつならありえる。
「つまり何が言いたいんだ」
「何かが変わってるのよ。覚醒で。------たぶん、これからもっと変わっていく」
エリカの目が遠くを見た。少しだけ、寂しそうな色が混じった気がした。
------でも一瞬だった。すぐにいつもの顔に戻る。
「まあいいわ。データは集まったし」
「そっちかよ」
「データ収集は楽しかったわ」
「そうじゃなくて」
タクシマルが俺の足にしがみつく。
「カイト兄ちゃん、まだ遊ぶ!」
「おまえもか」
草原に、笑い声が広がった。
風が吹く。羊が鳴く。遠くで馬がいななく。
穏やかな日常。でも------何かが変わり始めている。
俺はまだ、それがどれほど大きな変化なのか知らなかった。




