第9節「クランとの出会い」
「風の草原クランなら向こうに露店を出してるぞ」
教えてくれた男が指差した方角に歩いた。タクシマルはエリカの手をぎゅっと握ったまま離さない。もう片方の手で鼻水を拭いている。
通りを二本ほど進んだところに、他の露店とは少し雰囲気の違う一角があった。天幕の色が深い青で統一されている。並んでいる商品は干し肉や皮革製品、弓矢の部品。市場の中でも独特の空気を持つ一帯だった。
タクシマルが手を振った。
「ママー!」
一人の女性がこちらを振り返った。二十代半ば。黒い髪を一つに束ねていて、日焼けした肌に活発な印象。目が大きくて、タクシマルに似ている。
女性の顔が、一瞬で崩れた。
「タクシマル!」
走ってきた。露店の荷物を蹴飛ばしそうになりながら、全力で。タクシマルの体を抱き上げて、きつく抱きしめた。
「よかった......よかった......! どこに行ってたの......!」
声が震えていた。涙が頬を伝っている。タクシマルも母親の首にしがみついて泣き出した。今度は甘えた泣き方だった。
しばらく母子は離れなかった。
俺とエリカは少し離れて立っていた。何も言えなかった。言う必要もなかった。
女性が顔を上げた。涙を袖で拭って、俺たちに深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
「いえ、大したことは......」
「大したことですよ。この子、共通語がまだ話せないんです。クランの言葉しかわからなくて......見つけてくれただけじゃなく、言葉まで通じたなんて」
ソクタンと名乗った。タクファーの妻で、タクシマルの母親。気さくな笑顔だが、目の奥に聡明さがある。
------ぐう。
腹が鳴った。俺のだ。
------ぐう。
エリカのも鳴った。
二人同時。しかも盛大に。
ソクタンが目を丸くして、それから笑った。
「お腹空いてるんですね。お礼に食事をご馳走させてください」
異世界に来て初めての食事だった。
干し肉のスープ。硬いパンを浸して食べる。名前のわからない根菜の煮物。素朴な味だったが、空腹の体に染み渡った。涙が出そうになった。大げさじゃなく、本当に。
「美味い......」
「美味しい......」
二人とも無言で食べた。ソクタンがおかわりをよそってくれた。タクシマルは母の膝の上で、もう寝ていた。泣き疲れたのだろう。
食事の間、ソクタンは自然な会話で二人の素性を探っていた。さりげなかったが、確実に核心に近づいてくる。
「サラザルクは初めてですか?」
「はい」
「ずいぶん珍しい服装ですね。どこのクランの装束ですか?」
「えっと------」
言い淀んだ。制服をクランの装束と言い張るのは無理がある。
ソクタンがスープの器を置いた。目が変わった。さっきまでの気さくな母親ではない。
「異世界ですか?」
固まった。二人とも。
「その服装、この世界のものじゃないでしょう」
声は穏やかだった。でも目は笑っていない。
「それに、タクシマルの言葉を理解できた。『風の草原』クランの言語は独自のものです。他のクランにはまず通じません。ましてや、見ず知らずの旅人が話せるはずがない」
鋭い。図書館の知識でわかっていた。風の草原クランの言語は門外不出。外部の人間が習得する機会はほぼない。あの場で話せたこと自体が異常なのだ。
エリカが俺を見た。俺も見返した。
隠し続けるのは無理だ。ソクタンはもう確信している。
エリカが小さく頷いた。
「......うん。私たちは異世界から来た」
ソクタンは驚かなかった。予想通りだったのだろう。静かに頷いて、立ち上がった。
「義父に会わせます」
「義父?」
「風の草原クランの長です」
------クランの長。
タクシマルの祖父にあたる人物。つまりこのクランで最も権力を持つ人間。
嫌な汗が背中を伝った。
クランの中継地は町の外れにあった。市場の喧騒から離れると、草原に大小のテントが並んでいた。馬が繋がれている。焚き火の煙が夕空に昇っていた。
一番大きなテントの前に案内された。革と布で作られた堅牢な構造。入口に紋章が刺繍されている。風を象った渦巻きの模様だった。
テントに入った。
中は広かった。毛皮の敷物。木の杯が並んだ卓。奥に獣の骨で作った飾り。そして------上座に座る男。
四十代半ば。がっしりした体格。日に焼けた肌。短く刈り込んだ銀混じりの黒髪。そして------鋭い目。
風の草原クランの長。ゼファー。
視線が合った瞬間、空気が変わった。
張り詰めた。呼吸がしにくい。この人から出ている空気そのものが重い。クランの長というのは、こういう存在感なのか。
ゼファーが口を開いた。低い声だった。
「お前たちがタクシマルを助けてくれたそうだな」
「は、はい」
「礼を言う」
短く、しかし確かな重みのある言葉だった。頭を下げたわけではない。でもこの人の「礼を言う」には、千の感謝と同じ重さがあると感じた。
ゼファーの目が細くなった。
「しかし------お前たちは何者だ」
空気がさらに張り詰めた。テントの中の温度が下がったように感じた。
ソクタンの報告は届いている。異世界から来た。クランの言語を話せる。素性不明。
恩はある。だが警戒もある。
クランの長とは------そういうものなのだろう。




