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第8節「迷子のタクシマル」


 図書館を出ると、二つの太陽が傾いていた。


 空は橙色と紫の境目で、地上の影が長く伸びている。夕方だ。市場はまだ賑わっていたが、露店を畳み始めている者もいた。


 「まず飯」


 「うん」


 珍しく意見が一致した。朝から何も食べていない。もう限界だった。


 屋台の並ぶ通りに向かった。串焼きの匂い。焼きたてのパンの匂い。腹が暴れている。金はないが、エリカは図書館で得た知識を使えば何かしら交渉できるかもしれない。


 ------その時、騒ぎが耳に入った。


 通りの向こうで人だかりができている。怒鳴り声ではない。困惑したざわめき。


 そして------泣き声。


 子供の泣き声だった。


 人だかりをかき分けて前に出た。小さな男の子がいた。三歳くらい。黒い髪、丸い顔。涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。両手を握りしめて、声を上げて泣いている。


 周りの大人たちが困り顔で顔を見合わせていた。何か話しかけているが、男の子は反応しない。泣き続けている。


 「言葉が通じてないみたいだね」


 エリカが小声で言った。


 「共通語じゃない。どこかのクランの独自言語みたいだけど......私にもわからない」


 図書館で得た知識によれば、この世界には共通語がある。だが、各クランは独自の言語も持っている。共通語を話さないクランの子供なら、市場の人間とは会話できない。


 迷子だ。母親とはぐれたのだろう。


 男の子がひときわ大きな声で泣いた。しゃくり上げて、息もうまくできていない。顔が真っ赤だ。


 俺はしゃがんで声をかけようとしたが------何語で話しかければいい。共通語は通じない。この子のクランの言葉がわからない。


 エリカが、ポーチに手を入れた。


 ピンクのめがね。


 「......まさか」


 「他に方法がないでしょ」


 エリカの目が真剣だった。恥ずかしがっている場合じゃない。あの子を助けるにはこれしかない。


 でも------周りには人がいる。十数人の大人たちが見ている。


 エリカの顔が赤くなった。唇を噛んでいる。


 「......カイト、後ろ向いて」


 「了解」


 即座に背を向けた。もう慣れた。


 だが、俺一人が後ろを向いても意味がない。周りにはまだ十数人いる。


 エリカが声を張った。


 「皆さんも後ろを向いてください!」


 共通語で叫んだ。市場の喧騒の中、よく通る声だった。


 大人たちがきょとんとした。変な格好の少女が突然「後ろを向け」と言い出した。意味がわからないという顔。


 「お願いします! 後ろを向いて、耳をふさいでください! この子を助けたいんです!」


 必死だった。声が震えている。でも引かなかった。


 大人たちが顔を見合わせた。少しの間------そして一人が肩をすくめて後ろを向いた。つられて二人、三人。最終的に、人だかりの全員が後ろを向いた。


 異様な光景だった。泣いている子供を中心に、大人十数人とカイトが全員壁に向かっている。


 ------この絵面、どう見てもおかしいだろ。


 背中越しに、エリカの小さな声が聞こえた。


 「お、おりこうさんに......なあれ......」


 光の気配。


 エリカが息を呑む音。


 しばらくの沈黙。めがねが情報を取り込んでいるのだろう。生物に使うのは------たぶん初めてだ。本や看板と違って、人間を「見る」と何が入ってくるのか。


 エリカの足音が動いた。男の子に近づいている。


 「------タクシマル?」


 泣き声が止まった。


 ぴたり、と。


 「どこから来たの?」


 エリカの声。優しい。でも俺の知らない言葉だった。クランの独自言語で話している。


 「......なんで。なんで僕の名前、知ってるの?」


 小さな声が聞こえた。鼻声で、しゃくり上げながら。でも泣いていない。驚いている。


 「お母さんとはぐれたのね」


 「......うん」


 「大丈夫よ。一緒に探そうね」


 男の子------タクシマルの声が震えた。


 「......おねえちゃん、僕の言葉、わかるの?」


 「うん。わかるよ」


 「......うぅ......」


 また泣き出した。でもさっきとは違う泣き方だった。安心した泣き方。言葉が通じる人がいた。それだけで子供は安心できる。


 『......エリカ、すげえな』


 壁に向かったまま思った。


 めがねで子供を「見た」んだ。そうしたら、この子の使う言語が入ってきた。名前も。記憶も。本や看板だけじゃない。生き物にも使える。


 ------このめがね、とんでもない代物だ。


 「もういいわよ」


 エリカの声。振り返ると、エリカがタクシマルの手を握っていた。小さな手。ぎゅっとエリカの指にしがみついている。


 タクシマルは目を真っ赤に腫らしていたが、泣き止んでいた。エリカの顔を見上げている。信頼しきった目だった。


 周りの大人たちも振り返っていた。状況が飲み込めていない顔。でも子供が泣き止んだことだけはわかる。何人かが安堵の表情を浮かべた。


 「言葉がわかるのか」と一人が共通語で聞いた。


 「はい。この子は風の草原クランの子です。お母さんとはぐれたみたいで」


 エリカが答えると、ざわめきが広がった。風の草原クラン。聞いたことがある名前だ------図書館の知識にあった。


 「風の草原クランなら向こうに露店を出してるぞ」


 男が通りの奥を指差した。


 「行こう」


 エリカはタクシマルの手を引いて歩き出した。俺もついていく。


 ------ところで、タクシマルのクラン語を俺にも共有しないと会話できない。エリカは「おしゃべりしたいの」をもう一度言わなきゃいけない。


 その詳細は、エリカの名誉のために書かないでおく。


 ただ、俺のスネにまた一つ青あざが増えたことだけは記録しておく。


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