第1節「二つの太陽」
草の匂いがした。
青臭くて、どこか甘い。嗅いだことのない匂い。顔のすぐ横に、背の高い草が揺れている。風が頬を撫でた。乾いていて、心地いい。
------ここ、どこだ。
体を起こす。視界が一気に開けた。
草原だった。
見渡す限りの草原。金色の穂が風に波打って、地平線まで続いている。遠くに山脈が見える。青い空は高く、雲ひとつない。砧公園とはスケールが違いすぎる。
『......え?』
空を見上げた。
太陽が------二つある。
大きな太陽が真上に輝いていた。もうひとつ、少し小さな太陽がその右側にある。どちらも白く燦然と光を放っていて、草原を黄金色に染めている。
......マジか。
いや。マジだ。目をこすっても二つのまま。影も二つ伸びている。これが現実。
ある日見た不思議な夢が蘇った。金色の草原。二つの光。あの景色が目の前に広がっている。
------夢じゃなかったのか。
首元に手をやる。勾玉があった。触れた瞬間、淡い緑色の光がぼんやりと灯った。温かい。まるで「大丈夫だ」と言っているみたいに。
「これは......転移?俺は転移したのか......」
呟いて、すぐに気づいた。
エリカがいない。
振り返る。三メートルほど離れた草むらに、見覚えのあるポニーテールが横たわっていた。制服のまま。胸が小さく上下している。
「エリカ、大丈夫か!」
駆け寄って、肩を軽く揺する。
「おーい。エリカ」
「......ん」
ってか------寝てる?
返事がない。もう一度揺する。
「エリカ! 大丈夫か?」
ゆっくりと薄目を開けた。しばらくぼんやりこちらを見て------
「ここ、どこ......?」
寝起きの声。前髪に草がついている。
まあよかった。無事みたいだ。
「それは俺が聞きたい」
エリカは上体を起こした。草原を見渡して、空を見上げて------固まった。
「太陽が......二つ......」
「な。ヤバいだろ」
「............」
沈黙。エリカの目が左右に動く。こうなると長い。頭の中で情報を整理しているときの顔だ。
「なんかすっきり寝た気分」
「いや、のんきだな!?」
「あとアマルの世界の夢を見たわ」
さらっと言った。
『アマルの世界』------あの不思議な本。中島家の書棚で見つけた、誰が書いたかわからない革装丁の本。異世界や神々のことが細かく記されていた。
「夢って、どんな?」
「うーん......光に包まれて、声が聞こえた気がする。すごく温かかった。でも起きたら内容ほとんど忘れちゃった」
穏やかな顔だった。異世界に飛ばされた直後とは思えない。
『温かい光と声......って、なんだそれ』
気になったが、本人が覚えていないなら聞いても仕方ない。
エリカは額の汗を拭いながら、草についた土を払った。
「それより」
立ち上がる。制服のスカートについた草を手で叩きながら、三百六十度をぐるりと見回した。
「異世界としか思えない。太陽が二つある世界が地球上にあるわけがない」
断言。迷いがない。
「あんたの勾玉が光った瞬間、気を失ったでしょ。あれが転移の引き金よ。『アマルの世界』に書いてあった通り」
「......お前、冷静すぎないか」
「パニックになっても状況は変わらない。なら分析した方がマシ」
正論だった。反論できない。
エリカが風上を向いた。目を細める。
「------あれ、見える?」
指差す方向。草原の向こう、地平線に近いあたりに------煙が上がっていた。何本も。
「煙......?」
「町よ。建物の影も見える。人がいる」
目を凝らす。確かに、小さな四角い影がいくつか並んでいる。その上に、細い煙が何筋も空に伸びていた。
人がいる。
この異世界に。
勾玉に触れた。まだ温かい。淡い光は消えていない。
「とりあえず行ってみよう」
「同意。ここで座ってても情報は増えない」
二人は歩き出した。
草が腰まであった。かき分けるように進む。足元は柔らかい土で、歩きやすい。革靴がすぐに埃まみれになった。空気が澄んでいる。深く吸い込むと、肺の奥まで草の匂いが染みた。東京の排気ガスとは別物だ。
風が背中を押す。二つの太陽が、真上から俺たちを照らしていた。
------異世界。
本当に来てしまった。
心臓が速い。怖いのか、興奮しているのか、自分でもわからない。でも隣にエリカがいる。それだけで、足が前に出た。




