第10節「残された母」
カイトの部屋から光が溢れた。
緑色の眩い光。一瞬だけ。家中を照らして——消えた。
清美は台所にいた。洗い物をしていた手が止まる。皿がシンクにカチャンと当たった。
背筋が冷たくなった。
この光を知っている。十五年前に一度だけ見た光。砧公園で。アマルが現れた時の。
「......まさか」
階段を駆け上がった。スリッパが脱げた。構わない。
「誠一郎さん!」
書斎にいた夫が飛び出してきた。
「清美、何だあの光は」
「海斗の部屋よ」
二階の廊下を走った。カイトの部屋のドアに手をかける。
開けた。
——誰もいなかった。
窓は閉まっている。カーテンも閉じたまま。机の上にはデスクライトが点いている。ノートが開きっぱなしになっていた。×マークがびっしりと並んでいる。
押し入れから段ボール箱がはみ出している。中身が散乱していた。古い漫画。壊れたゲーム機。小学校の卒業アルバム。
生活の痕跡だけが残っている。さっきまでここに人がいた証拠。
でも——人はいない。
「海斗!」
誠一郎が部屋に踏み込んだ。クローゼットを開ける。押し入れを覗く。窓の鍵を確認する。
どこにもいない。
「清美、海斗はどこだ。何が起きた」
声が震えている。当然だ。息子が消えた。目の前から。
清美は立ち尽くしていた。部屋の真ん中で。
目を閉じた。一瞬だけ。
十五年前の記憶が蘇る。
砧公園のベンチ。桜の花びら。温かい風。お腹の中で蹴る小さな命。
アマルの声。
——「この子は末裔だ。いつか旅に出る日が来る」
覚悟はしていた。十五年間ずっと。この日が来ることを。
息子が生まれた日も。初めて歩いた日も。小学校の入学式も。
いつか、この子は遠くへ行く。
分かっていた。
「......始まったのね」
声は静かだった。
「何が始まったんだ。説明してくれ」
誠一郎が清美の肩を掴んだ。強い力。でも清美は動かなかった。
「海斗は......旅に出たの」
「旅? どこへ? 何の話だ?」
説明しなければならない。十五年間隠してきたことを。夫に全てを話す時が来た。
口を開きかけた。
その時——気づいた。
エリカがいない。
机の上を見た。ノート。ペン。消しゴム。
エリカの鞄がない。エリカの靴もない。玄関には——清美は記憶を辿った。エリカの靴があったはずだ。さっきまで。
血の気が引いた。
海斗だけじゃない。エリカも消えた。一緒に。
息子の旅立ちには覚悟していた。
でも——エリカまで巻き込むなんて聞いていない。
アマルとの約束にエリカは含まれていなかった。想定外だ。完全な想定外。
エリカの母親の顔が浮かんだ。参観日でいつも隣に座る人。優しい人。娘を深く愛している人。
その人に何と言えばいい。
娘さんが異世界に行きました?
信じるわけがない。
清美の膝が折れた。床にへたり込む。手が震える。頭を抱えた。
「あのおっちょこちょい......!
エリカちゃんまで巻き込むなんて......!」
息子への怒り。自分への後悔。エリカの両親への申し訳なさ。全部が混ざって、言葉にならなかった。
「どうしよう......どうしよう......」
声が漏れる。止められない。
誠一郎は呆然と立ち尽くしている。妻が何を言っているのか理解できていない。当然だ。清美だって混乱している。
でも一つだけ分かっている。
海斗は旅立った。世界を救う旅に。
そして——エリカを巻き込んだ。
「どうしよう......エリカちゃんのお母さんに......なんて説明すれば......」
既に顔面からは血の気がなくなっている。
強い女だと思っていた。十五年間耐えてきた。覚悟していた。息子を送り出す準備はできていた。
でもこれは想定外だった。
他人の子供を巻き込んでしまった。
「どうしようっっっっっ」
清美の悲鳴が深夜の家に響いた。
誠一郎は何も言えなかった。ただ妻の隣に膝をつき、震える肩にそっと手を置いた。
それしかできなかった。




