第8節「偶然の一言」
エリカが立ち上がった。
ふらっ、と体が揺れた。机に手をついて踏みとどまる。
「今日はもう遅いし、また明日考えよう」
声がかすれている。目は半開き。顔色も悪い。徹夜明けの体はとっくに限界を超えていた。
本を鞄にしまう。ノートもしまう。×マークだらけのノート。今日の成果はゼロだ。
「おい、大丈夫か? 足元ふらついてるぞ」
「大丈夫......ちょっと眠いだけ......」
ちょっとじゃない。ゾンビだ。目の下のクマが化粧みたいに濃い。髪もぐしゃぐしゃ。学年一位の秀才が見る影もない。
鞄を肩にかける。重そうだ。本とノートとピンクの眼鏡が入っている。
玄関に向かおうとして——また、ふらついた。ドアの枠に肩がぶつかる。
「いっ......」
「帰れんのかよ、それ」
「帰れる。まっすぐ歩けば三分よ」
まっすぐ歩けてない。今も壁に手をついている。
『......送ってくか?
いや、深夜に二人で歩くのもアレだし——って何考えてんだ俺』
エリカが振り返った。
「明日また来るから。本ももう一回読み直してみる」
「お前、まだやる気かよ」
「当然でしょ。紋様の一致は——」
あくびが挟まった。盛大なやつ。
「——事実なんだから」
呆れた。でも——すごいと思った。
エリカはいつもこうだ。諦めない。一度気になったことは納得するまで追いかける。追試の勉強もそうだった。俺が投げ出しかけるたびに「まだ三十ページ残ってる」と引き戻された。
ふと、思った。
エリカは毎年誕生日に来てくれる。小学校の頃からずっと。一度も欠かさず。
追試の勉強も付き合ってくれた。毎日放課後に。嫌な顔一つせずに。
縁日も一緒に行った。災難だらけだったのに、最後まで付き合ってくれた。
今日もこうだ。ファンタジー小説の設定を検証するなんて馬鹿げたことに何時間も付き合ってくれている。徹夜明けの体で。フラフラになりながら。それでも「明日また来る」と言う。
なんだろう。胸の奥がじわっと温かくなった。
感謝の言葉を言おうとした。
「ありがとう」って。
「いつも助かってる」って。
でも——言えない。恥ずかしい。十五年の付き合いで一度もそんなこと言ったことがない。今更どの面下げて。
『エリカ、いつもありがとう——いや、無理。恥ずかしくて死ぬ』
素直に言えないなら、ふざけるしかない。いつものパターンだ。照れ隠しの冗談。それならまだ言える。
勾玉がテーブルの上にあった。何気なく手に取った。深い緑色。冷たい石の感触。
握ったまま——ふざけた調子で言った。
「なあエリカ」
エリカがドアの前で振り返る。
「ありがとな。世界で一番愛してるぜ」
冗談だ。照れ隠しだ。本気じゃない。
——そのはずだった。
勾玉が光った。
「えっ」
俺とエリカの声が重なった。
手の中の勾玉が脈打つように明滅している。緑色の光だ。心臓の鼓動みたいに——トクン、トクン、トクン。光が強くなっていく。
「な、何これ——」
エリカが目を見開いた。眠気が一瞬で吹き飛んでいる。
光が溢れた。部屋中に。壁が緑に染まる。天井が緑に染まる。床が緑に染まる。影が消えた。闇が消えた。デスクライトの明かりなんか比じゃない。全てが光に飲み込まれていく。
同時に——エリカの鞄が光った。鞄の中だ。『アマルの世界』だ。本も光っている。勾玉と同じ緑色の光。二つの光が呼応するように脈打っている。
まぶしい。目を開けていられない。
手から勾玉を離そうとした。離れない。石が手に吸い付いている。
「カイトっ!」
エリカの声が遠くなる。
足元の感覚が消えた。床が——ない。
落ちる。
二人同時に、光の中に吸い込まれた。




