第1節「十五歳の誕生日」
十月十五日。秋晴れ。
追試地獄から解放されて三日。俺は生きている。
学校の門をくぐった瞬間、空を見上げた。雲ひとつない。金木犀の匂いがどこからか漂ってくる。世界は美しい。追試の結果が赤点ギリギリだったことを除けば。
——まあ、受かったからいいだろ。
今日は特別な日だ。十五歳の誕生日。
帰り道はいつもより足が速い。用賀の商店街を抜けて、角を曲がる。パン屋のショーケースに新作が並んでいた。栗のデニッシュ。うまそう。明日買おう。今日は母さんの飯がある。
玄関のドアを開けた。
「ただいまー」
靴を脱ぎかけて、止まった。
リビングの入り口に、ガーランドが揺れている。壁にはでかでかと「HAPPY
BIRTHDAY」の文字。風船もある。金と白。
『......派手だな』
毎年こうだ。母さんは手を抜かない。
「おかえり。今日は特別な日だからね。好きなもの全部作ったわよ」
キッチンから母さんの声。エプロン姿で振り返り、笑っている。手にはまだ菜箸。テーブルの上にはもう料理が並び始めていた。唐揚げ。ポテトサラダ。チーズの匂い——グラタンもあるのか。
「マジで? サンキュー母さん」
「十五歳よ。もう少しマシな返事できないの?」
「最高です。ありがとうございます」
「棒読みね」
母さんが笑った。いつもの笑い方。目じりにしわが寄る、あったかいやつ。
ダイニングの椅子に座ると、奥のソファに親父がいた。
「お。親父、早くね?」
「たまにはな」
誠一郎——うちの親父。普段は仕事が遅い。年に数回だけ、こうして早く帰ってくる。誕生日とクリスマスと、あとは正月くらいか。無口だが悪い親父じゃない。
「追試、受かったんだろ?」
「ギリギリな」
「ギリギリでも受かりゃ同じだ」
親父はそう言って新聞に目を戻した。この人の教育方針は基本これだ。結果オーライ。俺の楽観的な性格は確実に遺伝だと思う。
母さんがキッチンとテーブルを往復する。てきぱき。無駄がない。皿を並べ、グラスを出し、ジュースをーー
ふと、母さんの手が止まった。
窓の外を見ている。夕陽が差し込んでいた。オレンジ色の光が母さんの横顔を照らしている。
——その目が、遠い。
一秒。いや、二秒くらいだったか。
すぐに母さんは振り返った。さっきと同じ笑顔。何事もなかったみたいに。
「あ、エリカちゃんにも連絡した? 七時に来るって」
「あー、してない。つかエリカ今日も徹夜だろ。また本読んでたし」
「あの子、ほんとに本が好きねえ」
母さんは笑いながらグラタンをオーブンに戻した。
『......今、なんか遠い目してなかったか?』
一瞬だけ。そう思った。
でも母さんはもう笑っている。唐揚げの追加を揚げながら鼻歌まで歌ってる。
——気のせいか。
俺は考えるのをやめた。だって今日は誕生日だ。十五歳。高校一年生。追試も乗り越えた。これ以上何を悩む必要がある?
窓の外では、金木犀が風に揺れていた。




