第8節「確信」
数日後。図書館。
追試まであと三日。さすがの俺も焦ってきた。いや、焦ってはいない。少し急いでいるだけだ。同じか。違う。たぶん違う。
放課後の図書館は静かだ。窓から西日が差し込んでいる。埃が光の中で舞っている。冷房の音がかすかに聞こえる。
向かいの席にエリカ。教科書とノートが三冊。参考書が二冊。その横に——別のノートが開いていた。
見覚えがある。あの手帳じゃない。もっと大きいB5のノート。表紙に「分析用」と書いてある。エリカの字だ。
「お前、まだやってんの」
「やってるわよ」
ノートを覗き込んだ。縁日の災難データがグラフ化されていた。横軸が時間。縦軸が災難の回数。折れ線グラフと棒グラフ。色分けまでしてある。赤が「接触妨害」。青が「物理的事故」。右端に標準偏差の計算式。手書きとは思えない精度だ。
「やっぱりおかしいのよ」
エリカが鉛筆でグラフの一点を指した。
「接触妨害のタイミング。全て行動開始の〇・二〜〇・五秒前」
「うん」
「人間の反応速度は平均〇・二五秒。見てから動くまでにそれだけかかる。つまり——」
「つまり?」
「カイトが行動を起こす前に、相手はもう動き始めてる。予測するか、事前に知っていないと不可能なタイミングよ」
ノートのページをめくった。別のグラフ。妨害者の分布図。境内の地図に赤い点が打ってある。
「妨害してきた人間は全て別人。共通点なし。年齢も性別もばらばら。組織的な犯行なら何らかの共通項があるはずだけど、ゼロ」
「じゃあ偶然じゃん」
「偶然なら〇・二〜〇・五秒の一致は説明できない。偶然でもない。組織でもない。でも意図的。矛盾するのよ」
エリカが鉛筆を置いた。指先が少し震えている。悔しいのだ。
「データは集まった。分析もした。でも——『誰が』『なぜ』が分からない限り、対策の立てようがない」
声が低い。唇を噛んでいる。
エリカの弱点だ。分析はできる。データも集められる。パターンも見つけられる。でも——「じゃあどうする」が出てこない。答えに辿り着けない。犯人が分からなければ仮説が立てられない。仮説がなければ対策もない。そこで止まる。
「だからどうすんだよ」
聞いた。答えは分かっている。
「......分からない」
やっぱりそうだ。
エリカが悔しそうにノートを閉じた。ぱたん。いつもの音。でもいつもより少し強い。
「分かんねえことは考えても仕方ねえ。今は追試だ」
教科書に目を戻した。数学の公式。因数分解。こっちのほうが解ける分だけましだ。答えがある。
「......そうね」
エリカも勉強に戻った。鉛筆が動き出す。参考書のページをめくる音。静かな図書館に紙の擦れる音だけが響く。
五分。十分。静かな時間が流れた。
ふと顔を上げると——エリカが手を止めていた。
教科書じゃなく、鞄から出した本を見つめている。『アマルの世界』。あの不思議な紋章の表紙。指で紋章をなぞっていた。無意識の動作だ。目の焦点が合っていない。何か考え込んでいる。
何を考えているのか分からない。紋章と縁日の分析に何の関係があるのか。たぶんない。でもエリカはこういう時——頭の中で何かを繋げようとしている。点と点を。まだ線にならない点を。
「エリカ、何ぼーっとしてんの?」
「えっ」
エリカが顔を上げた。手が本から離れる。きょとんとした顔。惚けていた自覚がなかったらしい。
「惚けてる顔、面白いよね」
笑った。悪気はない。いつもの軽口だ。
——エリカの目が変わった。
眼鏡の奥で何かが光った。怒りとか呆れとか、そういう可愛いものじゃない。もっと原始的な何か。殺意に近い何か。
次の瞬間。
右のスネに衝撃。
蹴られた。全力で。エリカの足が——上靴のつま先が——スネの骨に直撃した。
痛い。
痛い痛い痛い痛い。
椅子から転げ落ちた。床に倒れる。膝を抱えた。声が出ない。出せない。スネを押さえる。じんじんする。涙が出そうだ。いや出てる。
図書館の床は冷たい。天井の蛍光灯がぼやけて見える。エリカの上靴の底が視界の隅に見えた。
「......勉強しましょう」
エリカの声が上から降ってきた。平坦な声。何事もなかったかのような声。
返事ができない。声が出ない。スネが。スネが死んでいる。
這い上がって椅子に戻るまで三十秒かかった。スネをさすりながら教科書を開く。文字が涙でぼやけている。因数分解の公式が何も頭に入らない。
『......俺が何をした』
エリカは涼しい顔で参考書を読んでいる。『アマルの世界』は鞄にしまわれていた。さっきまで紋章をなぞっていたことなど忘れたかのように。
——でも、たぶん忘れていない。
エリカは忘れない。記録する。分析する。まだ答えの出ない問いを、頭の片隅に保存し続ける。
俺とは違う。俺は忘れる。流す。面倒くさいから考えない。
でもエリカは考え続ける。答えが出なくても。
追試の勉強に戻った。スネがまだ痛い。
夏の終わりが近づいていた。




