第7節「不思議な夢」
夢を見た。
草原だった。
見渡す限りの緑。地平線まで続いている。風が吹いていた。頬に当たる。乾いた風だ。日本の夏とは違う。湿気がない。草の匂い。土の匂い。どこまでも広い空。
『どこだ、ここ』
知らない場所だ。テレビで見たモンゴルの草原に似ている。でもどこか違う。空気が違う。色が違う。緑が深すぎる。光が強すぎる。遠くに山脈が見えた。雪を被った頂き。白く光っている。
足元を見た。ブーツを履いていた。革のブーツ。いつの間に。さっきまで裸足でベッドにいたはずだ。服も違う。Tシャツじゃない。粗い布の——なんだこれ。遊牧民が着てるような上着だ。
空を見上げた。
太陽があった。
——二つ。
『太陽が......二つ?』
左と右。片方は白っぽい光。もう片方はオレンジがかっている。二つの太陽が空に並んでいる。影が二本伸びていた。自分の影だ。足元から左右に。
夢だ。分かっている。夢に決まっている。太陽が二つあるわけがない。
でも——妙にリアルだった。風の感触がある。草を踏む足の裏の感覚がある。匂いがある。夢なのに五感が全部動いている。いつもの夢はぼんやりしているのに、これは違った。鮮明すぎる。
草原の向こうに何かが見えた。
人影。
馬に乗った男たちが、こちらに近づいてくる。五人。いや、もっといる。後ろにも。十人。二十人。全員が馬に乗っている。革の鎧。毛皮のマント。腰に弓。遊牧民のような格好だ。
先頭の一人が馬を止めた。降りてくる。馬が鼻を鳴らした。白い息。草原なのに空気が冷たい。二つの太陽があるのに。不思議だ。
四十代くらいの男だった。日焼けした肌。短く刈り込んだ黒い髪。顎に短い髭。厳しい顔つき。戦いの中で生きてきた顔だ。傷がある。額から右の頬にかけて、古い刀傷。
でも——目は優しかった。
厳しい顔の中に、穏やかな光がある。威厳と温かさが同居している目。どこかの——長。人をまとめる立場の人間の目だ。こういう目は知っている。少年野球の監督がこんな目をしていた。叱る時も褒める時も、いつも同じ温度の目。
男がカイトの前に立った。近い。手を伸ばせば届く距離。男の革鎧から馬と草の匂いがした。
口が動いた。何かを言っている。
言葉が分からない。日本語じゃない。英語でもない。聞いたことのない言語だ。低い声。力強いが穏やかな響き。
何を言っているのか分からない。でも——敵意はなかった。
むしろ。
歓迎されている。そう感じた。根拠はない。言葉も分からないのに。でも男の目が、表情が、声の調子が——「よく来た」と言っている気がした。
男が右手を差し出した。握手だろうか。いや、掌を上に向けている。何かを渡そうとしている? それとも——。
手を伸ばした。男の掌に触れようとした——。
——目が覚めた。
天井。自分の部屋の天井だ。白い。蛍光灯が消えている。暗い。カーテンの隙間から明かりが漏れている。朝か。いや、まだ夜中だ。時計を見る。三時十四分。
汗をかいていた。Tシャツが背中に貼りついている。心臓が速い。走った後みたいだ。
夢の内容は鮮明に覚えている。草原。二つの太陽。馬に乗った男たち。あの目の優しい男。差し出された手。
普通、夢は覚めたら忘れる。細部から消えていく。でもこれは消えない。全部覚えている。草の匂いまで。男の目の色まで。手を伸ばした時の、指先の感覚まで。
『変な夢だ』
ベッドの横に金魚の袋。赤い魚がゆっくり泳いでいる。現実だ。ここは自分の部屋で、今日は日曜日で、追試まであと六日。太陽は一つしかない。当たり前だ。
エリカなら何と言うだろう。「夢の内容を記録して。日時、場面、登場人物、五感の有無を項目別に」——とか言いそうだ。間違いなく言う。手帳に書け、と。フォーマットまで指定してくるだろう。あいつなら夢の中でもメモを取っているかもしれない。ペンライト付きで。
面倒くさい。記録したところで何が変わるわけでもない。夢は夢だ。
『面倒くせえ。寝よ』
枕に顔を埋めた。三秒で意識が落ちた。
二つの太陽のことも、あの男のことも、朝になったら忘れているだろう。たぶん。
——忘れなかった。




