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第2節「紺色の浴衣」


土曜日。鳥居の前に着いたのは十七時五分過ぎだった。


 遅刻だ。分かってる。


 原因は下駄の鼻緒。家を出て三分で切れた。まさかの初手トラブル。仕方なくサンダルに履き替えて走ってきた。紺色の浴衣にサンダル。致命的に合っていない。


 そもそもこの浴衣だって俺の意思じゃない。母さん——清美が「せっかくだから」と押しつけてきたのだ。着付けも清美。帯の結び方が分からないから一人じゃ着られない。十五歳にもなって母親に着せてもらう男。情けない。


 鳥居が見えた。石段の下。提灯の明かりが夕暮れに滲んでいる。どこかで太鼓の音。祭りの準備が始まっている。焼きとうもろこしの匂いが風に乗ってきた。腹が鳴った。


 鳥居をくぐる手前に、エリカがいた。


 白地に青い朝顔の浴衣。髪をいつもより少し上にまとめている。かんざしが一本。左手首に腕時計。右手にはもちろん手帳。浴衣姿で手帳を持ってるやつ、日本に何人いるんだろう。


 エリカは腕時計に目を落としたまま言った。


 「五分十三秒の遅刻ね」


 「秒まで計んなよ」


 「正確さは分析の基本よ」


 溜め息が出る。分析。縁日の待ち合わせに分析はいらない。


 「悪い悪い。下駄の鼻緒が切れてさ」


 エリカが手帳を開いた。ペンでさらさらと何か書き込む。日付、時刻、そして「鼻緒(三回目)」。手慣れた動作だ。


 「鼻緒が切れたの? 今月三回目よ」


 「よく覚えてんな」


 「記録してるもの。カイトの災難は全部」


 手帳のページがちらりと見えた。日付と時刻。災難の内容。場所。びっしり。しかも表形式。列の見出しに「分類」「重症度」とある。色分けまでしている。赤は「要注意」。黄は「軽微」。俺の人生、ほぼ赤だった。


 『俺の不幸がデータベース化されてる......』


 引いた。正直引いた。でもまあ、エリカだ。こういうやつなのだ。


 「鼻緒の平均寿命は通常三年。カイトの場合は平均十一日。異常な頻度よ」


 「知りたくなかった、その情報」


 エリカが手帳を閉じる。ぱたん。目線がようやくこっちに上がった。


 ——で、初めて俺の格好に気づいたらしい。


 「浴衣......」


 「ああ。母さんに着せられた」


 エリカの目が少し泳いだ。何を見ているのか分からない。浴衣か。サンダルか。サンダルだろうな。俺だって分かってる。紺色の浴衣にゴム草履。台無しだ。


 でもまあ、こっちだって思うことはある。普段は制服かジャージしか見てないから、浴衣姿は新鮮だ。似合ってると思った。素直に。


 「おっ、エリカ浴衣に合ってるね。美人は何着ても似合うね!」


 軽口。いつもの調子。


 ——エリカが止まった。


 手帳を握ったまま硬直している。石みたいに動かない。顔が見えない。うつむいているからだ。耳の先が見える。赤い。夕焼けのせいじゃない。


 十年以上の腐れ縁だ。分かっている。こいつは攻められると極端に弱い。データ分析はできる。確率計算もできる。論文レビューみたいな読書感想も言える。でも褒められると回路がショートする。毎回だ。面白いくらい毎回。


 五秒。十秒。動かない。


 「......おーい。エリカさーん」


 返事なし。


 「壊れた?」


 エリカがくるっと背を向けた。手帳で顔を隠している。首筋まで赤い。


 「——行きましょう」


 声が上擦っている。


 「予定では二十一時までに帰宅したいから、効率よく回るわよ」


 効率。


 『縁日に効率を求めるやつがいるか』


 心の中でツッコむ。でも口には出さない。今ツッコんだらエリカの回路がさらに壊れる。経験則だ。


 鳥居をくぐった。


 参道に提灯の列。オレンジ色の光が浴衣を照らす。焼きそばの匂い。りんご飴の甘い香り。子供たちのはしゃぐ声。射的の的が倒れる乾いた音。


 夏祭りだ。


 毎年来ている。幼稚園から数えて十年以上。エリカと二人で。変わったのは身長くらいだ。あとは——エリカが手帳を持つようになったことと、俺の災難が記録されるようになったこと。まあ、記録されたところで何が変わるわけでもない。


 三歩前をエリカが歩いている。まだ耳が赤い。手帳をぎゅっと握りしめている。浴衣の背中が提灯の光で白く浮かんでいる。朝顔の柄がゆらゆら揺れる。


 『褒めただけなのに大袈裟だな』


 そう思いながら後を追った。サンダルがぺたぺた鳴る。紺色の浴衣にサンダル。


 ——まあいいか。縁日だし。


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