第1節「誘い」
放課後の教室は蝉の声に埋もれていた。
七月。窓の外は夕焼け。図書館での勉強を終えて教室に戻ると、誰もいない。当たり前だ。こんな時間まで残ってるのは追試組だけ。しかもその追試まであと一週間。
『やべえな』
正直、全然やべえと思っていない。なんとかなるだろう。たぶん。
鞄を取りに机まで歩く。ふと掲示板が目に入った。カラフルなポスター。地元の神社の夏祭り。今週の土曜日。金魚すくいの絵がやたら気合い入ってる。
「あ」
声が出た。
毎年行ってるやつだ。幼稚園の頃から。エリカと二人で。親同士が仲良いから、毎年カイトの誕生会にもエリカが来る。縁日もその延長。恒例行事ってやつ。
「——何ぼーっとしてるの」
振り返る。エリカが教室の入口に立っていた。手には図書館の本が三冊。さっきまで一緒に勉強していたくせに、まだ本を借りてきたらしい。こいつの勉強量はバグっている。
「いや、ポスター見てた。縁日」
指で掲示板を差す。エリカがこっちに歩いてくる。上靴が床を叩く音。ぺたぺた。
「ああ、夏祭りね」
「縁日行くだろ? 一緒に行こうぜ」
わざわざ改まって言うことでもない。毎年行ってる。聞くまでもない。でもまあ、一応。
エリカは鞄から手帳を取り出した。革のカバー。付箋がびっしり。開いて七月のページを確認する。指で日付をなぞっている。
「土曜日ね。予定は——空いてるわ」
「お前いちいち手帳見んのな」
「当然でしょ。スケジュール管理は基本よ」
『俺は予定なんて覚えてねえけど』
いや、正確に言うと覚える気がない。頭の中に入れておけばいい。入らなかったら——まあ、そん時はそん時だ。
エリカが手帳を閉じる。パタン。いい音がした。
「追試前だけど」
来ると思った。
「適度な休息は学習効率を上げるというデータもあるし」
理屈っぽい。何をするにも根拠がいる。遊びに行くのに論文みたいな理由をつけるやつ。でもまあ、それがエリカだ。十年以上の付き合いで慣れた。
「素直に行きたいって言えよ」
「別にそういうわけじゃ——」
エリカが目を逸らした。こういう時だけ歯切れが悪い。素直じゃないのだ。昔から。
教室の時計が五時を指す。チャイムはもう鳴らない。放課後の静けさ。遠くで野球部の声が聞こえる。
エリカが本を鞄にしまい始めた。図書館の本が三冊。数学の参考書が一冊。そしてもう一冊——表紙に不思議な紋章が描かれた本。
『アマルの世界』。
エリカが最近ずっと読んでるやつだ。ファンタジー小説。作者不詳。表紙の紋章がやたら凝っている。エリカは「図書館の棚で偶然見つけた」と言っていた。
「まだ読んでんの、それ」
「面白いのよ。世界観の構築が緻密で、設定の整合性が——」
「感想が論文レビューなんだよ」
エリカが口をつぐんだ。少しむくれた顔。
「......面白いの。普通に」
さっきと同じパターン。最初に理屈を言って、突っ込まれると素直になる。
エリカが鞄のチャックを閉じた。本が五冊。鞄がぱんぱんだ。肩にかけるとき少しよろけた。
「重そうだな」
「大丈夫。鍛えてるから」
「嘘つけ。体育で懸垂ゼロ回だっただろ」
「——あれは器具の問題よ」
器具のせいにするな。
エリカが教室の出口に向かう。俺も鞄を掴んで後を追った。
「じゃあ土曜日ね。十七時に鳥居前で」
「おう」
「遅刻しないでよ。カイトはいつも五分遅れるから」
「しねえよ、たぶん」
「『たぶん』って何よ......」
エリカが呆れた顔をした。いつもの顔だ。
廊下に出る。夕日が差し込んでいた。オレンジ色の光。エリカの影が長く伸びている。蝉の声がさっきより近い。
隣を歩くエリカの鞄から『アマルの世界』の背表紙がのぞいていた。金色の紋章。なんだか見たことがあるような——。
『いや、気のせいか』
考えるのをやめた。
追試のことも、紋章のことも。とりあえず土曜日は縁日だ。それだけ決まっていればいい。
細かいことはエリカが考えてくれる。昔からそうだ。
昇降口を出ると、熱気が顔にぶつかった。七月の空気。アスファルトが焼けた匂い。
「暑っ」
「今日の最高気温は三十四度よ。湿度は七十八パーセント」
「聞いてねえよ」
いつも通りの放課後。いつも通りの会話。
——何も変わらない日常だった。
まだ。




