第9節「『アマルの世界』
追試まであと一週間。
数学は目処が立った。英語もなんとかなりそうだ。物理だけまだ怪しいけど、エリカは「間に合う」と言ってくれた。信じることにした。
その日も図書館で二時間ほど勉強して、エリカが「今日はここまで」とノートを閉じた。
「よく頑張ったわね」
「お前に言われると通知表もらった気分だな」
「通知表ならオール三ってところね」
「厳しいな先生」
参考書をカバンに詰める。エリカは——カバンに手を伸ばさなかった。代わりに立ち上がって、本棚の奥に歩いていった。
「どこ行くんだよ」
「ちょっと気になる棚があるの」
図書館の奥。あまり人が来ないエリア。郷土史と民俗学の棚が並んでいる。前に本棚が倒れかけたあの辺だ。
エリカの後をついていった。特に理由はない。帰る前の散歩みたいなもんだ。
棚の間は薄暗かった。西日がここまで届かない。埃の匂い。古い紙の匂い。背表紙が色褪せた本が並んでいる。
エリカが一冊の本の前で足を止めた。
「......これ」
棚の端。他の本に挟まるように収まっていた。背表紙は深い紺色。文字は——金色。
『アマルの世界』。
作者名はない。出版社も書いていない。
エリカが本を引き抜いた。埃が舞った。しばらく誰も手に取っていなかったらしい。
表紙を見て、エリカの手が止まった。
「......この紋様」
表紙の中央に紋様が描かれていた。円を基調にした幾何学模様。複雑に絡み合う線。中心に何かの文字のようなものが刻まれている。見たことのない文字だ。
でも——不思議と、目が離せなかった。
いや。俺は別に目が離せないってほどでもない。ただの変わった模様だ。でもエリカは違った。食い入るように見つめている。
「見て、この紋様。どこかで見た気がする」
「俺は知らないけど」
「......どこだろう。見たことがある気がするのに、思い出せない」
エリカの表情がいつもと違った。普段のエリカは、わからないことがあれば調べる。調べれば答えが出る。それが当たり前。でも今の顔は——調べる前に、もう何か感じてる。
エリカが本を開いた。
最初のページ。
書き出しはこうだった。
——はるか昔。世界がまだ何もなかった頃。一人の神が愛を願った。
「ファンタジー小説か?」
「......わからない」
エリカがページをめくる。俺も横から覗き込んだ。
十二柱の神。それぞれが世界の柱となり、異なる力を司る。炎。水。雷。地。風。光。力。時。命。魂。知恵。調和と崩壊。
枝葉世界。始まりの地から枝分かれした無数の世界。人間界はその一つに過ぎない。
末裔。十二柱の神の力を受け継ぐ者たち。各世界に散らばり、覚醒の時を待っている。
覚醒具。末裔が覚醒するための鍵。形は様々。持ち主が手にしたとき、初めてその力が目覚める。
「すごい世界観ね......」
エリカの目が輝いていた。本を読むときの目だ。でも普段よりずっと強い。吸い込まれそうな集中力。
「ファンタジー小説だろ? 設定集みたいなもんじゃないか」
「かもしれないけど......」
エリカがページをめくる手が止まらない。パラパラと。でも読み飛ばしてるわけじゃない。こいつの読書速度なら、これが「精読」だ。
「作者名がないの。出版社もない。奥付もない。ISBNコードもなし」
「手作りの同人誌とか?」
「装丁がしっかりしすぎてるわ。箔押しよ、この文字。でも図書館の蔵書検索にも出てこなかった」
「じゃあ誰かが勝手に置いたのか」
「......かもしれない」
エリカが表紙の紋様をもう一度見た。指先でそっとなぞった。
その瞬間——エリカの指が、ほんの一瞬だけ震えた。
気のせいかもしれない。光の加減かもしれない。でも俺には、エリカの指先が紋様に触れた瞬間、何かが走ったように見えた。
「エリカ?」
「......ん?」
「大丈夫か。ぼーっとしてるぞ」
「してないわよ。考えてるの」
いつものエリカに戻った。でも本を持つ手は離さなかった。
「これ借りて帰る」
「蔵書検索に出てこない本、借りられるのか?」
「バーコードは貼ってあるわ。司書さんに聞いてみる」
棚の間を出た。西日が目に眩しかった。
「なあ、エリカ」
「なに」
「追試の方が大事だろ。現実を見ろ、現実を」
「見てるわよ。これはこれ。追試は追試」
「お前の『これはこれ』は信用できないんだよ。本にハマると寝食忘れるだろ」
「大丈夫よ。カイトの追試が終わるまではちゃんと教えるから」
「そっちの心配もしてるけど——」
「じゃあ何を心配してるの」
「......いや、別に」
うまく言えなかった。何が引っかかってるのか自分でもわからない。
ただ、さっきのエリカの表情が気になった。紋様を見たときの、あの顔。知的好奇心とは少し違う。もっと深い。もっと根っこにあるものに触れたみたいな。
まあいい。エリカが本を好きなのは今に始まったことじゃない。
図書館を出た。エリカは『アマルの世界』を胸に抱えていた。大事そうに。
帰り道。いつもの並木道。桜はもう葉桜に変わり始めていた。
「ねえ、カイト」
「ん?」
「十二柱の神さまがいて、その末裔が世界中にいるって——面白いと思わない?」
「ファンタジーとしてはな」
「ファンタジーとして、ね」
エリカが小さく呟いた。
俺たちは家の前で別れた。隣同士だから、別れるも何もないけど。
「じゃあな。明日も図書館な」
「ええ。おやすみ」
エリカが自分の家に入っていった。玄関のドアが閉まる直前、横顔が見えた。
まだ『アマルの世界』を抱えていた。
——自分の部屋に戻って、ベッドに倒れ込んだ。疲れた。物理の問題集が頭の中でぐるぐる回ってる。
追試まであと一週間。
エリカがいれば、なんとかなる。たぶん。
天井を見上げた。蛍光灯がチカチカしている。またか。
目を閉じた。
——十二柱の神。末裔。覚醒。
エリカが読み上げた言葉が、なぜか頭の隅に残っていた。ファンタジー小説の設定だ。それだけのはずだ。
それだけの、はず——
眠りに落ちた。
第9節「『アマルの世界』」 了




