第8節「見えない敵」
深夜二時。
世田谷区用賀。住宅街は静まり返っていた。街灯の光が路面を照らし、どこかで猫が鳴いている。春の夜。風はない。
一軒の家の前に、男が立っていた。
フードを目深に被った長身の男。人間の姿をしているが、人間ではない。執行者デイブ。モルスが遣わした使徒の一人。
デイブは腰を下ろし、懐からノートを取り出した。表紙に「業務日誌」と書いてある。丁寧な字。几帳面なのか暇なのか。
ページを開いた。今日の予定が箇条書きされている。
一、自動販売機のリリースボタンを細工する(午前七時四十分)。
二、電柱の看板のネジを緩める(午前七時四十五分)。
三、下駄箱に蜂を誘導する(午前八時)。
四、教室の机の脚に切り込みを入れる(午前六時。早朝に侵入)。
五、購買のカレーパンに賞味期限切れシールを貼り替える(午前十時。二時間目の間に)。
六、サッカー部の練習ボールの軌道を風で曲げる(午後三時半。要集中)。
デイブはノートを眺め、ため息をついた。
「......地味だ」
地味だった。十五年間、毎日欠かさず続けてきた嫌がらせ——もとい、妨害活動。缶を落とす。ネジを緩める。虫を誘導する。家具に傷をつける。食品の表示を偽装する。
一つ一つは小さい。ささやかですらある。だが積み重ねれば効果はある。はずだ。あるはずだ。
「......あるよな?」
自信がなくなってきた。十五年やって、あのガキはまだ笑ってる。毎日災難を食らって、それでも笑って学校に通ってる。
『こっちの心が折れそうだ』
そのとき。背後に気配が生まれた。
「お疲れさま」
振り向かなくてもわかる。この間の抜けた声。
ルー。もう一人の使徒。観察者。
街灯の下にルーが立っていた。フードの中から覗く顔は、やる気があるのかないのかわからない表情だ。
「何の用だ」
「別に。観察しに来ただけ。それが仕事だもの」
「観察なら黙ってやれ」
「黙ってたら暇じゃない」
ルーがデイブの隣にしゃがみ込んだ。ノートを覗き込む。
「ふうん。今日も細かいわね」
「妨害は細部に宿る」
「それ、本来の言い回しと違わない?」
「うるさい」
ルーがデイブの業務日誌をぱらぱらとめくった。十五年分。何十冊にもなるノートの最新版。
「十五年も嫌がらせを続けるなんて、執念深いわね」
「妨害だ。嫌がらせじゃない」
「何が違うの」
「嫌がらせは個人的な感情だ。妨害は任務。俺は任務を遂行しているだけだ」
「へえ。じゃあ先週、あの子の弁当箱を逆さまにしたのも任務?」
「......食事の質を低下させることで集中力を削ぐ戦略的妨害だ」
「卵焼きが天井に張り付いてたわよ」
「それは......予想外の副産物だ」
ルーが笑った。遠慮なく。
「で、成果は出てるの?」
「出てる」
「嘘ね」
「......出てるはずだ」
「あの子、毎日笑ってるわよ。クラスの人気者で、友達も多くて、学年一位の女の子に勉強教えてもらってて」
「それは——」
「成果が見えるのかしら」
痛いところを突かれた。デイブは黙った。
十五年。五千四百七十五日。一日も休まなかった。雨の日も。台風の日も。正月も。あのガキが寝ているときも家の周りを巡回した。
効果があるかと問われると——微妙だった。
あのガキは折れない。何が起きても笑い飛ばす。災難を笑いに変える才能がある。こっちの妨害を無効化するような強さがある。
「やめたら?」
「やめるわけにいかない。一日でも覚醒を遅らせるんだ」
「覚醒って。あの子、まだ何も気づいてないでしょ」
「だからだ。気づかせないために妨害を続ける。日常に災難を紛れ込ませて、異常を異常と思わせない」
「でも、隣の女の子はもう気づきかけてるわよ」
デイブの眉がぴくりと動いた。
「......何?」
「災難を数えてるの。百四十七回って。『偶然じゃない』って言ってた」
「あのメガネ——いや、メガネかけてない方のガキか」
「そう。中島エリカ。頭がいいわね、あの子」
デイブは舌打ちした。厄介だ。
「まあいい。気づいたところで、原因にはたどり着けない。俺たちは人間には見えないからな」
「そうね。......ところで」
「なんだ」
「明日の予定は」
デイブがノートを開いた。
「自転車を三台ぶつける」
「三台」
「通学路の三つの交差点で、タイミングを合わせる。難易度は高い」
「相変わらず地味ね」
「派手なことはできないんだよ」
デイブの声が低くなった。
「直接殺す力を失ったからな
沈黙が落ちた。虫の声が妙に大きく聞こえた。
ルーが言った。軽い声で。
「タピオカのせいでね」
デイブの全身が固まった。
「......その話はするな」
「渋谷のタピオカ屋さん、まだあるわよ。先週通りかかったら行列ができてた」
「するなと言ってるだろう」
「原宿のクレープ屋さんは潰れちゃったけど」
「ルー」
「あ、怒った?」
「怒ってない。怒ってないから二度とその話をするな」
ルーが肩をすくめた。楽しそうだった。
十五年前の失態。カイトが生まれるとき、タピオカとクレープを買いに行って間に合わなかった。それで呪いを受けた。末裔を直接殺す力を失った。
使徒としては致命的な失敗だ。弁解の余地はない。ないから触れるな。
「......朝が来る」
デイブが空を見上げた。東の空がうっすらと白んでいた。
「仕事に戻る」
「はいはい。頑張ってね」
「お前も観察してるなら、少しは役に立て」
「観察者は観察するのが仕事よ。手を出さないの」
「便利な肩書きだな」
「でしょ」
デイブが立ち上がった。フードを直し、ノートをしまった。通学路の自動販売機に向かう。今日も細工がある。ネジを緩めるスパナは懐に入れてある。
ルーは電柱の影に腰を下ろして、ぼんやりと空を見ていた。
——朝が来た。
橘家の玄関が開いた。
カイトが出てきた。カバンを肩にかけて、空を見上げて、伸びをした。
「——よし。今日も頑張るか」
いつもの朝。いつもの声。見えない敵がいることを、知らない。
花びらが一枚、カイトの肩に落ちた。
そしてカイトは、通学路を歩き始めた——自動販売機の前を、通って。




