第7節「百四十七回」
その日も図書館で勉強していた。
物理の問題集を三ページ解いたところで、エリカが「休憩にしましょ」と言った。珍しい。普段は俺が「休憩」と言い出す側なのに。
「どうした。お前から休憩って」
「話があるの」
エリカの声が、いつもと少し違った。軽口のトーンじゃない。
参考書を閉じた。エリカがカバンの中からノートを取り出した。見慣れないノート。表紙に何も書いてない。
「なにそれ」
「見て」
エリカがノートを開いた。
表が書いてあった。縦の列に日付。横の列に——場所、内容、時間、被害の程度。
四月七日。通学路。自転車衝突。午前七時四十分。擦り傷。
四月七日。自販機前。缶落下。午前七時四十五分。スネに打撲。
四月七日。電柱前。看板落下。午前七時五十分。回避。被害なし。
四月七日。下駄箱。蜂の巣。午前八時五分。指を挟む。
四月七日。教室。机の脚破損。午前八時二十分。教科書落下。
四月七日。教室。ボール飛来。午後三時四十分。顔面直撃。鼻部打撲。
一日分だけで六件。ページをめくった。
四月八日。七件。
四月九日。五件。
四月十日。八件。
びっしり。一件一件、日時と場所と内容が記録されている。エリカの几帳面な字で。データが延々と続いてる。
「......お前」
「一ヶ月分よ」
「一ヶ月分?」
エリカがノートの最後のページを開いた。集計表があった。グラフまで描いてある。手書き。定規で線を引いてある。
「一ヶ月で百四十七回」
百四十七。
『数えてたのかよ......!』
「内訳はこう。物理的衝突が四十二回。落下物が三十一回。器物破損が二十八回。動物関連が十七回。機械の故障が十五回。その他が十四回」
分類されてる。カテゴリ分けされてる。俺の不幸が、統計データになってる。
「一日平均四・九回。最多は四月十五日の十一回。最少は四月二十一日の二回」
「二回の日があったのか。平和だな」
「平和じゃないわよ。普通の人はゼロよ」
エリカがノートの余白に書いた数字を指差した。
「一般的な事故率。日本人の一日あたりの不慮の事故発生率は約〇・〇三パーセント。月に換算すると、一人の人間が何らかの事故に遭う回数は——二回から三回」
「月に?」
「月に。カイトは百四十七回。約五十倍」
五十倍。
数字で言われると、重さが違う。なんとなく「多いな」と思ってたものが「異常だ」に変わる。
「これは偶然じゃない」
エリカの声が低くなった。本から目を上げたときの、あの真剣な目。冗談を言う目じゃない。
「統計的にありえないの。百四十七回という数字は、正規分布の範囲を完全に逸脱してる。偶然でこうなる確率は——」
「エリカ」
「——ゼロに等しいわ」
俺は笑った。笑おうとした。
「考えすぎだろ。俺が不運なだけで——」
「不運で説明できる範囲を超えてるの」
エリカが遮った。珍しい。こいつが人の話を遮ることは滅多にない。
「パターンがあるのよ、カイト」
「パターン?」
「朝の通学路で平均一・八回。学校で平均二・一回。放課後に〇・七回。帰宅後に〇・三回。場所と時間帯で発生頻度が違う。でも——ゼロの時間帯がない」
ゼロの時間帯がない。寝てるとき以外、常に何かが起きてる。
「しかも種類が偏りすぎてる。致命的なものはない。全部、怪我はするけど命に関わらない。五センチずれたら頭に当たる看板。割れそうで割れない窓ガラス。刺しそうで刺さない蜂」
言われてみれば——そうだ。
俺の災難は、派手だけど致命的じゃない。痛いけど死なない。怖いけど大怪我しない。ぎりぎりの線を、いつも絶妙に踏んでる。
「まるで——加減してるみたいなのよ」
加減。
その言葉が、妙に引っかかった。
「誰かが意図的にやってる。そうとしか思えない」
エリカが俺を真っ直ぐ見た。
図書館の空気が変わった。西日が本棚の影を伸ばしていた。さっきまでの勉強モードとは違う。何か、大事な話をしてる気がした。
「......いや」
俺は首を振った。
「誰がそんなことするんだよ。毎日。百四十七回も。一ヶ月も」
「わからない。でも何かがおかしい」
「データは嘘をつかないわ」
エリカの声は静かだった。確信に満ちていた。
俺は窓の外を見た。夕日が沈みかけてる。空がオレンジから紫に変わっていく。
『......確かに、おかしいとは思ってた』
ずっと思ってた。なんで俺だけ。なんで毎日。なんで生まれたときから。
でも考えないようにしてた。考えても答えが出ないから。答えが怖いから。
エリカが蓋をこじ開けようとしてる。俺がずっと閉じてた蓋を。
「——まあ」
俺は肩をすくめた。笑った。いつもみたいに。
「仮に誰かがやってたとしても、どうしようもないだろ。犯人がわかるわけでもないし」
「それは——」
「それより追試だ。あと二週間。現実を見ようぜ、現実を」
話を逸らした。自覚はある。
エリカは何か言いかけて——やめた。ノートを閉じて、カバンにしまった。
「......そうね。続きやりましょ」
参考書を開く。物理の続き。力学の第四問。
いつもの放課後に戻った。でも——さっきの数字が、頭の中から消えなかった。
百四十七回。
五十倍。
偶然じゃない。
誰かが——やってる。
『......考えるな。今は考えるな』
ペンを握った。問題を解く。集中しろ。今は追試のことだけ考えろ。
でも。
エリカのノートに並んだ数字が——ちらちらと、視界の端にこびりついていた。




