第6節「図書館の放課後」
放課後の図書館。
窓から西日が差し込んで、本棚の背表紙が琥珀色に光っていた。古い紙の匂い。ページをめくる微かな音。空調の低い唸り。
静かだ。図書館は静かだ。当たり前だけど、俺にとっては貴重な空間だった。
「ここからやるわよ。数学の二次関数」
エリカが参考書を開いた。付箋がびっしり貼ってある。俺のために準備してきたらしい。
「まず聞くけど、どこからわからない?」
「......全部」
「全部は嘘でしょ。授業の最初の方は理解してたはずよ」
「なんでわかるんだよ」
「授業中のカイト、最初の二十分は真面目に聞いてるもの。残りの三十分で寝るけど」
『バレてた』
エリカの分析が正確すぎて怖い。
「じゃあ、二次関数のグラフの変換から」
エリカが説明を始めた。
——これが、わかりやすい。
教科書に書いてあることと同じはずなのに、エリカが言うと全然違う。難しい公式を噛み砕いて、俺が知ってる言葉に変換してくれる。
「この公式は覚えなくていい。導き方を理解して」
「導き方?」
「公式って、誰かが発明したものでしょ。発明した人の気持ちになれば、暗記しなくても自分で作れるの」
「発明した人の気持ち......」
「ここからここに辿り着きたかった。だからこうした。それだけよ」
エリカがノートに式を書く。一行ずつ。飛ばさない。途中の計算も全部見せる。
ああ。そういうことか。
パズルのピースがはまるみたいに、頭の中で繋がった。
「なるほど......お前すげえな」
「当然でしょ。学年一位だもの」
さらっと言った。自慢なのか事実の報告なのかわからない。たぶん本人的には事実の報告。
『自慢かよ。でも頼もしい』
初日はそんな感じで過ぎた。
二時間で二次関数の基礎が頭に入った。自分でも驚いた。今まで何週間かけてもわからなかったことが、エリカの説明なら二時間で済む。
「俺って、頭悪いわけじゃなかったのか」
「最初からそう言ってるでしょ。カイトは理解力はあるの。ただ——」
「ただ?」
「勉強が嫌いなだけ」
「......否定できない」
帰り道。下北沢に寄った。ブーランジェリーラニス。駅から徒歩二十五分。帰りの坂がきつい。
ノワゼットクッキー。まだあった。奇跡だ。
翌日。エリカに渡した。エリカは一口食べて、目を閉じた。
「......至福」
その一言のために坂を登ったと思えば、まあ、悪くない。
——二日目。
英語。単語の覚え方をエリカが教えてくれた。語源から攻める方法。ラテン語の接頭辞と接尾辞を覚えれば、知らない単語でも推測できるらしい。
「\\\"pre\\\"は『前に』。\\\"dict\\\"は『言う』。だから\\\"predict\\\"は?」
「前に言う......予言?」
「正解。こうやって分解すれば丸暗記しなくていいの」
『こいつ塾講師になれるだろ。いや、なるべきだ。世の中の受験生が救われる』
集中。ノートに向かう。ペンが走る。わかる。理解できる。勉強って、こんなにスムーズに進むものだったのか。
——そのとき。
ガタン。
背後の本棚が揺れた。傾いた。こっちに倒れてくる。
「っ!」
反射的に立ち上がった。椅子が倒れた。エリカが本棚を片手で支えた。もう片方の手には参考書を持ったまま。
「......大丈夫よ。こっち側の支えが甘かっただけ」
「いや、お前よく片手で支えられたな」
「軽いわよ。中身スカスカだもの。この棚、郷土史コーナーでしょ」
冷静すぎる。
本棚を元に戻す。司書さんが飛んできた。「大丈夫ですか」。大丈夫です。たぶん。
——三日目。
物理。力学。ここがカイトの最大の壁だ。計算量が多い。集中力がいる。
エリカの説明を聞く。わかる。ノートに書く。理解できる。問題を解き始める。
バシッ。
窓ガラスにボールが飛んできた。割れなかった。でも轟音。心臓が止まるかと思った。
エリカは窓を閉めた。何事もなかったように席に戻った。
「続きやるわよ」
「お前、動じなさすぎだろ」
「窓が割れたわけじゃないでしょ。はい、第三問」
——五日目。
蛍光灯が切れた。突然。俺たちの席の真上だけ。図書館の他の蛍光灯は全部ついてるのに。
暗くなった。ノートが見えない。
エリカがスマホを出した。ライトをつけて、ノートの上に置いた。
「これでいいでしょ」
「......お前さ」
「なに」
「なんでそんなに落ち着いてるんだ」
本気で聞いた。
本棚が倒れかけても。ボールが飛んできても。蛍光灯が切れても。エリカは一度も慌てなかった。驚いた顔すらしなかった。
普通、怖くないか。普通、嫌にならないか。俺と一緒にいると、こういうことが毎日起きるんだ。
エリカはスマホのライトの中で、少し考えるような顔をした。
「——カイトといると慣れるわ」
さらっと。何でもないことのように
「......慣れる?」
「十二年も一緒にいるのよ。今さらじゃない?」
それはそうかもしれない。でも、慣れるのと平気なのは違う。
エリカは平気だった。本当に平気そうだった。
「ありがとな」
思わず口に出た。
エリカが目を丸くした。
「何よ急に」
「いや。ちゃんと言ったことなかったなと思って」
「気持ち悪い」
「二回目だぞそれ。もうちょっと語彙ないのか学年一位」
「じゃあ、不気味」
「悪化してるだろ!」
エリカがぷっと噴き出した。小さく。すぐに真顔に戻ったけど、確かに笑った。
「......どういたしまして」
小さな声。ノートに目を落としながら。
蛍光灯はまだ切れたままだった。スマホのライトが二人分のノートをぎりぎり照らしている。薄暗い図書館の片隅で、俺たちは勉強を続けた。
——一週間が過ぎた。
数学の模擬テスト。エリカが過去問から作ってくれた。結果、五十八点。赤点は脱出。六十点にはあと少し。
英語。単語テスト。八割正解。一週間前には三割だった。
物理。まだ苦しい。でも問題の意味がわかるようになった。何を聞かれてるか理解できるだけで、全然違う。
「いい感じね。このペースなら間に合うわ」
エリカが言った。初めて聞く言葉だった。「間に合う」。
『......間に合うのか。本当に』
信じていいのかわからない。でも、信じてみたいと思った。
図書館の窓から夕焼けが見えた。オレンジ色の空。いつもの帰り道の色だ。
災難は相変わらず毎日来る。でもエリカがいると、なぜかなんとかなる。理屈じゃない。理屈は後でいい。
今はただ、明日もここで勉強できることが——ちょっとだけ嬉しかった。




