表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/32

第6節「図書館の放課後」


放課後の図書館。


 窓から西日が差し込んで、本棚の背表紙が琥珀色に光っていた。古い紙の匂い。ページをめくる微かな音。空調の低い唸り。


 静かだ。図書館は静かだ。当たり前だけど、俺にとっては貴重な空間だった。


「ここからやるわよ。数学の二次関数」


 エリカが参考書を開いた。付箋がびっしり貼ってある。俺のために準備してきたらしい。


「まず聞くけど、どこからわからない?」


「......全部」


「全部は嘘でしょ。授業の最初の方は理解してたはずよ」


「なんでわかるんだよ」


「授業中のカイト、最初の二十分は真面目に聞いてるもの。残りの三十分で寝るけど」


『バレてた』


 エリカの分析が正確すぎて怖い。


「じゃあ、二次関数のグラフの変換から」


 エリカが説明を始めた。


 ——これが、わかりやすい。


 教科書に書いてあることと同じはずなのに、エリカが言うと全然違う。難しい公式を噛み砕いて、俺が知ってる言葉に変換してくれる。


「この公式は覚えなくていい。導き方を理解して」


「導き方?」


「公式って、誰かが発明したものでしょ。発明した人の気持ちになれば、暗記しなくても自分で作れるの」


「発明した人の気持ち......」


「ここからここに辿り着きたかった。だからこうした。それだけよ」


 エリカがノートに式を書く。一行ずつ。飛ばさない。途中の計算も全部見せる。


 ああ。そういうことか。


 パズルのピースがはまるみたいに、頭の中で繋がった。


「なるほど......お前すげえな」


「当然でしょ。学年一位だもの」


 さらっと言った。自慢なのか事実の報告なのかわからない。たぶん本人的には事実の報告。


『自慢かよ。でも頼もしい』


 初日はそんな感じで過ぎた。


 二時間で二次関数の基礎が頭に入った。自分でも驚いた。今まで何週間かけてもわからなかったことが、エリカの説明なら二時間で済む。


「俺って、頭悪いわけじゃなかったのか」


「最初からそう言ってるでしょ。カイトは理解力はあるの。ただ——」


「ただ?」


「勉強が嫌いなだけ」


「......否定できない」


 帰り道。下北沢に寄った。ブーランジェリーラニス。駅から徒歩二十五分。帰りの坂がきつい。


 ノワゼットクッキー。まだあった。奇跡だ。


 翌日。エリカに渡した。エリカは一口食べて、目を閉じた。


「......至福」


 その一言のために坂を登ったと思えば、まあ、悪くない。


 ——二日目。


 英語。単語の覚え方をエリカが教えてくれた。語源から攻める方法。ラテン語の接頭辞と接尾辞を覚えれば、知らない単語でも推測できるらしい。


「\\\"pre\\\"は『前に』。\\\"dict\\\"は『言う』。だから\\\"predict\\\"は?」


「前に言う......予言?」


「正解。こうやって分解すれば丸暗記しなくていいの」


『こいつ塾講師になれるだろ。いや、なるべきだ。世の中の受験生が救われる』


 集中。ノートに向かう。ペンが走る。わかる。理解できる。勉強って、こんなにスムーズに進むものだったのか。


 ——そのとき。


 ガタン。


 背後の本棚が揺れた。傾いた。こっちに倒れてくる。


「っ!」


 反射的に立ち上がった。椅子が倒れた。エリカが本棚を片手で支えた。もう片方の手には参考書を持ったまま。


「......大丈夫よ。こっち側の支えが甘かっただけ」


「いや、お前よく片手で支えられたな」


「軽いわよ。中身スカスカだもの。この棚、郷土史コーナーでしょ」


 冷静すぎる。


 本棚を元に戻す。司書さんが飛んできた。「大丈夫ですか」。大丈夫です。たぶん。


 ——三日目。


 物理。力学。ここがカイトの最大の壁だ。計算量が多い。集中力がいる。


 エリカの説明を聞く。わかる。ノートに書く。理解できる。問題を解き始める。


 バシッ。


 窓ガラスにボールが飛んできた。割れなかった。でも轟音。心臓が止まるかと思った。


 エリカは窓を閉めた。何事もなかったように席に戻った。


「続きやるわよ」


「お前、動じなさすぎだろ」


「窓が割れたわけじゃないでしょ。はい、第三問」


 ——五日目。


 蛍光灯が切れた。突然。俺たちの席の真上だけ。図書館の他の蛍光灯は全部ついてるのに。


 暗くなった。ノートが見えない。


 エリカがスマホを出した。ライトをつけて、ノートの上に置いた。


「これでいいでしょ」


「......お前さ」


「なに」


「なんでそんなに落ち着いてるんだ」


 本気で聞いた。


 本棚が倒れかけても。ボールが飛んできても。蛍光灯が切れても。エリカは一度も慌てなかった。驚いた顔すらしなかった。


 普通、怖くないか。普通、嫌にならないか。俺と一緒にいると、こういうことが毎日起きるんだ。


 エリカはスマホのライトの中で、少し考えるような顔をした。


「——カイトといると慣れるわ」


 さらっと。何でもないことのように


「......慣れる?」


「十二年も一緒にいるのよ。今さらじゃない?」


 それはそうかもしれない。でも、慣れるのと平気なのは違う。


 エリカは平気だった。本当に平気そうだった。


「ありがとな」


 思わず口に出た。


 エリカが目を丸くした。


「何よ急に」


「いや。ちゃんと言ったことなかったなと思って」


「気持ち悪い」


「二回目だぞそれ。もうちょっと語彙ないのか学年一位」


「じゃあ、不気味」


「悪化してるだろ!」


 エリカがぷっと噴き出した。小さく。すぐに真顔に戻ったけど、確かに笑った。


「......どういたしまして」


 小さな声。ノートに目を落としながら。


 蛍光灯はまだ切れたままだった。スマホのライトが二人分のノートをぎりぎり照らしている。薄暗い図書館の片隅で、俺たちは勉強を続けた。


 ——一週間が過ぎた。


 数学の模擬テスト。エリカが過去問から作ってくれた。結果、五十八点。赤点は脱出。六十点にはあと少し。


 英語。単語テスト。八割正解。一週間前には三割だった。


 物理。まだ苦しい。でも問題の意味がわかるようになった。何を聞かれてるか理解できるだけで、全然違う。


「いい感じね。このペースなら間に合うわ」


 エリカが言った。初めて聞く言葉だった。「間に合う」。


『......間に合うのか。本当に』


 信じていいのかわからない。でも、信じてみたいと思った。


 図書館の窓から夕焼けが見えた。オレンジ色の空。いつもの帰り道の色だ。


 災難は相変わらず毎日来る。でもエリカがいると、なぜかなんとかなる。理屈じゃない。理屈は後でいい。


 今はただ、明日もここで勉強できることが——ちょっとだけ嬉しかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ