第5節「ジャンプ土下座」
翌日の放課後。
俺は屋上にいた。
風が強い。フェンスの向こうに桜町の住宅街が広がっている。夕方の光が屋根を染めて、遠くに電車が走るのが見えた。
屋上は本来立ち入り禁止だ。でも鍵が壊れている。壊れてることを知ってる生徒は少ない。エリカはその数少ない一人だ。
放課後にここで本を読む。あいつの習慣。
つまり——待ち伏せだ。
『やってることがストーカーっぽいな。いや、違う。幼馴染だからセーフ。幼馴染だから』
ドアが開いた。
エリカが出てきた。片手に文庫本。もう読み始めてる。足元を見てない。屋上の段差に躓きかけた。
「っと」
「おい、危ねえぞ」
「......カイト?」
エリカが顔を上げた。本から目を離すのに二秒かかった。
「なんでここにいるの」
「お前を待ってた」
「......気持ち悪い」
「ひでえ」
エリカは怪訝な顔で俺を見た。それから屋上をぐるっと見回して、他に誰もいないことを確認した。
「なに。改まって」
「頼みがある」
「嫌よ」
「まだ何も言ってないだろ!」
「カイトが改まるときはろくなことがないの。経験則よ」
『否定できない』
でも引けない。引いたら留年だ。
深呼吸した。腹を決めろ。プライドなんか捨てろ。今ここで捨てなかったら、来年もう一度二年生をやることになるんだ。
「エリカ」
「なに」
「勉強を——教えてくれ」
真っ直ぐ言った。目を逸らさなかった。
エリカが瞬きした。一回。二回。
「勉強?」
「追試がある。三科目。三週間後。六十点取らないと留年する」
「......それ、だいぶまずくない?」
「まずい。かなりまずい。だから頼んでる」
エリカは腕を組んだ。文庫本を胸の前に抱えるような格好。考えてる顔だ。
「私も忙しいの」
「何が忙しいんだよ」
「読みたい本が五十三冊あるの。積読が」
「それ忙しいに入るのか?」
「入るわよ。本は生き物よ。放置すると死ぬの」
「死なねえよ! 本は死なない!」
「精神的に死ぬのよ。読まれない本は」
『こいつと話してると論点がどんどんずれていく......』
ダメだ。正攻法では通じない。こうなったら——奥の手だ。
俺は一歩下がった。
エリカが首を傾げた。
そして——跳んだ。
ジャンプ。全力の。膝を曲げて、思いきり飛び上がって、そのまま前方に体を投げ出した。
着地。両膝と両手がコンクリートに叩きつけられる。額を地面に押しつけた。
ジャンプ土下座。完成形。
「頼む! お願い! なんでも言うこと聞くからああ!」
額がコンクリートに擦れて痛い。膝も痛い。でも構わない。留年よりマシだ。
沈黙。
風が吹いた。髪が揺れる音がした。
エリカの声が降ってきた。冷たい。氷点下だ。
「......何やってるの」
「土下座だ。見ればわかるだろ」
「跳んだわよね。今」
「ジャンプ土下座だ。普通の土下座じゃ誠意が伝わらないと思って」
「膝から血が出てるわよ」
「誠意の証だ」
「ただの馬鹿よ」
顔を上げた。エリカが俺を見下ろしてる。呆れた顔。でも——口元が少しだけ、ほんの少しだけ緩んでた。
『いける。この顔は脈ありだ』
「頼む、エリカ。お前しかいないんだ。学年一位のお前しか」
「褒めても無駄よ」
「褒めてない。事実を言ってる」
エリカが黙った。文庫本を両手で持って、ぱたぱたと手のひらに打ちつけてる。考えてるときの癖だ。
五秒。十秒。
「——ねえ、カイト」
「なんだ」
「ブーランジェリーラニスって知ってる? 下北の」
「は?」
話が飛んだ。いや、エリカの中では繋がってるんだろう。俺にはまったく見えないけど。
「知るわけねえよ。なんだそれ」
「パン屋さん。下北沢にあるの」
「それが今の話と何の関係が」
「そこのノワゼットクッキーが絶品なのよ」
エリカの目が光った。こいつ、本と食べ物の話になると目の輝きが変わる。
「ええ——買ってこいってこと?」
エリカは答えなかった。上目遣いでじっと見つめてくるだけだ。無言の圧力。
『この顔。これは交渉だ。こいつ、取引してやがる』
背に腹は代えられない。留年と買い出しなら、買い出しの方がマシに決まってる。
「......わかった。買ってくる」
「やったー」
エリカが小さくガッツポーズした。珍しい。普段あんまり感情を出さないくせに。
「じゃあ教えてくれるんだな」
「いいわよ。放課後、図書館で」
「助かる! マジで助かる!」
「あっ、待って。一つ言い忘れてた」
エリカが人差し指を立てた。にこっと笑った。可愛い——じゃなくて、怖い。この笑顔は怖い。
「毎週ね」
「......は?」
「ノワゼットクッキー。毎週買ってきて」
「毎週!? 追試までの三週間じゃなくて!?」
「三週間だけだったら、三週間だけ教えるわよ?」
「..................」
「追試が終わった後も、期末もあるし、来年の受験もあるし。ずっと教えた方がいいでしょ?」
理屈は正しい。正しいけど。
「毎週は勘弁してくれ!」
「うん。じゃあ勉強は一人で頑張って」
「えええっっっっっ」
エリカがくるっと背を向けた。文庫本を開いた。帰ろうとしてる。
「待て待て待て!」
「何?」
「......商談成立」
「やったー」
二回目のガッツポーズ。さっきより大きい。完全に勝者の顔だ。
『こいつ......最初から全部計算してたな』
エリカが文庫本をぱたんと閉じた。満足げだ。
「じゃあ明日から放課後、図書館ね。遅刻しないでよ」
「遅刻はしねえよ。俺は」
「はいはい。じゃあね」
エリカは屋上のドアに向かって歩いていった。足取りが軽い。鼻歌が聞こえる。
俺は屋上のコンクリートに座り込んだ。膝が痛い。額も擦りむいた。ズボンに穴が開いた。二日連続。
『......ブーランジェリーラニス。下北の。ノワゼットクッキー。毎週』
スマホで検索した。
店の住所を見て、固まった。
下北沢駅から——徒歩二十五分。
坂の下。住宅街の奥。Googleマップの口コミに「たどり着くのが一番の難関」と書いてあった。
『聞いてねえぞ。駅から遠いとか聞いてねえぞ』
しかも定休日が火曜と水曜。営業時間は十一時から十六時。売り切れ次第終了。
口コミ。「ノワゼットクッキーは午前中に売り切れることが多いです」。
『午前中!? 学校あるんだけど!?』
騙された。完全に騙された。あいつ全部知ってて条件出しやがった。学年一位の頭脳を交渉に使うな。
夕日が沈んでいく。屋上の風が冷たくなってきた。
膝の血がじわっと滲んだ。
でも——まあ、いいか。
勉強を教えてもらえるなら、ノワゼットクッキーくらい買ってやる。毎週。坂を登って。売り切れと戦いながら。
『これも一種のサバイバルだな』
立ち上がった。膝が痛い。でも、さっきよりちょっとだけ気分は軽かった。




