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第4節「進級危機」


放課後。職員室に呼ばれた。


 担任の田中先生。四十代。丸眼鏡。数学教師。温厚だけど成績には厳しい。


 職員室のドアをノックした。コーヒーの匂いが漏れてくる。放課後の職員室は独特の空気だ。誰かが怒られている声。プリンターの唸り。蛍光灯がジジッと鳴っている。


「失礼します」


「橘、座れ」


 田中先生の机の横に丸椅子がある。座った。ギシッと軋んだ。


『壊れるなよ。今日はもう机一台壊してるんだ』


 先生が一枚のプリントを俺の前に置いた。中間テストの成績表。


 数学。三十二点。


 英語。二十八点。


 物理。三十五点。


 赤い線が引いてある。赤点ライン——四十点。三科目とも余裕で下回っている。


「橘」


「はい」


「お前は頭が悪いわけじゃないんだ」


『いきなりフォローから入るパターン。これ、後が怖いやつだ』


「授業中の理解力は悪くない。発言もいい。ただ——」


 先生が眼鏡を押し上げた。


「結果が出ていない」


『ですよね』


「三科目赤点。このままだと進級が危うい」


 進級。


 その二文字が、ずしんと胸に落ちた。


「追試があるのは知ってるな」


「はい」


「三週間後だ。三科目とも六十点以上。それがボーダーラインだ」


 六十点。今の倍近い。


『無理ゲーだろ......』


「橘。正直に聞く。勉強はしてるのか」


「してます」


 嘘じゃない。してる。してるんだ。ただ——。


「してるんですけど......その、なかなか」


「なかなか、何だ」


 どう説明すればいいのか。


 勉強しようとすると、何かが起きる。毎回。必ず。


 参考書を開く。ページが破れる。問題集を買う。誤植だらけで解答が全部間違ってる。返品しようとしたら店が潰れてた。


『あれは泣いた。マジで泣いた』


 塾に行ったこともある。中学のとき、母さんが申し込んでくれた。三日で講師が急病になった。代わりの講師が来た。その人も一週間で腰をやった。三人目の講師は「この教室は何かある」と言って辞めた。


 塾の方から「申し訳ないがご退塾を」と連絡が来た。生徒側から退塾を求められるんじゃない。塾側から退塾を求められたんだ。


『日本で俺だけだろ。塾に出禁くらった中学生』


 家で勉強しようとしても同じだ。机に向かうと停電する。近所の工事じゃない。うちだけ停電する。電力会社に問い合わせたら「原因不明です」と言われた。


 懐中電灯で勉強した。電池が切れた。買い置きを探した。全部液漏れしてた。


 スマホのライトで勉強した。充電が秒で消えた。さっきまで八十パーセントあったのに。


『もう勉強するなってことか? 誰に言われてるのかわからないけど』


 図書館に行った。静かだった。集中できた。三十分だけ。本棚が倒れかけた。司書さんが「地震ですか?」と言ったけど、地震じゃない。俺だ。俺が近くにいるから倒れかけたんだ。


 カフェで勉強した。コーヒーがひっくり返った。ノートが全滅した。


 公園で勉強した。鳩に囲まれた。パンなんて持ってないのに。三十羽くらい。完全包囲された。


 友達の家で勉強した。水道管が破裂した。友達の母さんに「もう来ないで」と言われた。


『これで「勉強してるのか」と聞かれても困る』


「......先生。俺、やる気はあるんです。でも集中できる環境がなくて」


「環境は自分で作るものだ」


 正論。ぐうの音も出ない。でも俺の場合は違うんだ。環境を作ろうとすると、環境の方が壊れるんだ。


「言い訳はいい。結果で見せろ、橘」


 先生の声が少しだけ柔らかくなった。


「お前は出来る生徒だと思ってる。授業中の反応を見ればわかる。理解力はあるんだ。ただ、それがテストの点数に反映されてない」


「......はい」


「三週間あれば十分だろう。三科目六十点。やれるな」


 やれるな、と聞かれて「無理です」とは言えない。言ったら本当に終わる。


「......やります」


「よし。何か困ったら相談しろ。放課後の補習も用意できる」


「ありがとうございます」


 立ち上がった。丸椅子がまたギシッと鳴った。


 職員室を出る。廊下は夕日でオレンジ色に染まっていた。


 三科目。六十点。三週間。


 数学。公式が頭に入らない。入っても問題を解こうとすると何かが起きる。


 英語。単語を覚えようとすると単語帳が消える。比喩じゃない。物理的に消える。鞄の中に入れたはずなのに、次の日にはない。三冊買い直した。


 物理。これが一番きつい。計算が多い。集中力が必要だ。集中しようとすると災難が来る。災難が来ると集中が切れる。切れるとやり直し。永遠のループ。


『詰んでないか、これ』


 廊下を歩きながら、天井を見上げた。


 蛍光灯がチカチカしている。切れかけだ。


 俺の真上だけ。


『......やっぱ呪われてるんじゃねえか、俺』


 ため息。三回目。


 でも、やるしかない。やらなきゃ留年だ。留年したらエリカと学年がずれる。そうなったらあいつは誰が面倒を見るんだ。信号無視して轢かれるぞ。


『......いや、エリカは関係ないだろ。留年が嫌なのは俺自身の問題だ。俺自身の』


 また念押しした。癖になってる。


 校門を出た。夕暮れの空にカラスが飛んでいた。


 三週間。なんとかしないと。


 でも「なんとかする」の具体策が、まったく浮かばない。


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