第1節「散歩に行こう」
五月の風が吹いた。
カーテンが膨らむ。陽の光が寝室に差し込んで、橘清美は目を細めた。
妊娠九ヶ月。お腹はもう限界まで膨らんでいる。寝返りを打つだけで一大事業だ。ベッドから起き上がるのは登山に等しい。
でも今日は天気がいい。窓の外から鳥の声が聞こえる。
『散歩に行こう』
思い立ったら吉日。清美は両手でお腹を支えながらベッドの端ににじり寄った。腰がみしりと鳴る。お腹が重い。当たり前だ。人間を一人、抱えているのだから。
足が床についた瞬間、お腹の子がぽこんと蹴った。
『はいはい。あなたも賛成ね』
着替えを済ませて玄関を出る。五月の空は抜けるように青い。
隣の中島家の庭が目に入った。薔薇が見事に咲いている。白とピンクのグラデーション。中島のおばさんは庭いじりが上手だ。お腹が大きくなってからも毎朝欠かさず手入れをしているらしい。
『エリカちゃん、だっけ。もう生まれたのかな』
中島家も女の子を授かったと聞いた。予定日は清美とほぼ同じだ。こないだ「お互い頑張ろうね」と笑い合ったのが最後で、最近は顔を見ていない。清美がこの体になってからは、ご近所づきあいもすっかりご無沙汰だった。
用賀の駅前に着く。世田谷ビジネススクエアの一階にあるスタバに入った。
「デカフェのスターバックスラテ、ショートで」
テラス席に座る。ぬるい風がほどよく心地いい。カフェインを気にしなくていいデカフェはありがたい。味はまあ------正直に言えば物足りない。でも、今は我慢の時期だ。
『もうちょっとだからね。生まれたら思いきりコーヒー飲むんだから。三杯は飲む』
お腹をさすりながら、通りを眺めた。ベビーカーを押す若いお母さん。手をつないで歩く親子。世界は穏やかに回っている。
清美はふと、二十二年前のことを思い出した。
宮崎の祖母の家。夏の縁側。風鈴の音。------白い猫。
あの猫は、猫ではなかった。人語を解し、十歳の少女に「宿命」を語った。祖母はそのことを知っていた。むしろ、引き合わせたのだ。
『......考えるのはやめよう』
ラテを飲み干して、清美は立ち上がった。
いらかみちに出る。瓦を敷き詰めた遊歩道だ。足元の感触がひんやりして気持ちいい。百人一首が刻まれた瓦を見つけて、清美は少し笑った。
『秋の田の------えっと。続きが出てこない』
昔はもう少し覚えていた気がする。三十二年も生きると、記憶の引き出しは散らかる一方だ。
環八を渡って砧公園に入る。
緑が目に眩しい。欅の木が風に揺れて、葉擦れの音がさらさらと降ってくる。芝生の広場では子供たちが駆け回っている。きゃあきゃあという歓声。犬を連れた老夫婦。ランニングをしている若い男。
穏やかな午後だ。
清美はベンチに腰を下ろした。ふう、と息をつく。足が少しむくんでいる。靴がきつい。妊婦の散歩は五分で疲れる。
『この子も、いつかはああやって走り回るのかな』
お腹に手を当てる。じんわりと温かい。この中に命がある。それだけで胸がいっぱいになる。
名前は、まだ決まっていなかった。
誠一郎はいくつか候補を出してくれた。でも、どれもしっくりこない。この子にぴったりの名前は------きっと、会ったらわかる。そんな予感があった。
パンの匂いが風に乗ってきた。公園の近くにベーカリーがあるのだ。焼きたてのバターの香ばしさ。お腹の子がまたぽこんと動いた。
『食いしん坊ね、あなた』
清美は微笑んだ。
そのとき------視線を感じた。
右。茂みの陰。白い毛並み。
小さなポメラニアンが、じっとこちらを見ていた。
首輪はない。飼い主の姿もない。丸い黒目が、まっすぐに清美を捉えている。
『迷い犬かな......』
清美が腰を浮かせた瞬間------
お腹の子が蹴った。
三回。
トン・トン・・・・・・トン。
息が止まった。
このリズムを、清美は知っている。子供の頃に何度も聞かされた。祖母の声が脳裏に蘇る。
------「三回のうち、最後の一回だけ間が空くの。それが『招き』の印よ。神さまが呼んでいるの」
心臓が跳ねた。手が震えている。
二十二年。二十二年間、あの日のことを忘れようとしてきた。普通の人生を送ろうとしてきた。結婚して、家を構えて、子供を授かって。
それなのに------
ポメラニアンは動かない。小さな体。ふわふわの白い毛。だが------その黒い瞳には、犬のものとは思えない光が宿っていた。
底の見えない、深い知性。
『まさか------今、来ますか......!』
五月の風が、ふっと止んだ。




