第9節「始まりの泉」
三日目の昼。
森が開けた。
目の前に広がった光景に、息を呑んだ。
透明な水が岩の間から湧き出している。小さな泉。水面は鏡のように静かで、周囲の木々を完璧に映し出していた。波紋一つない。そこだけ時間が止まっているかのようだ。
空気が違う。澄んでいるなんてものじゃない。吸い込むだけで体の内側が洗われるような感覚。光の粒子が空気中に漂い、ゆっくりと回転している。音もない。虫の声も、風の音も、ここには届かない。
静寂。それだけが支配する空間。
「すげえ\...\...ここが始まりの泉か」
思わず声が出た。自分の声が場違いに響いて、少し恥ずかしかった。
四人とも足が止まっていた。ゼファーですら言葉を失っている。フローシャンテリアは手を胸の前で組み、目を閉じた。祈っているのだろうか。
泉に近づく。水が信じられないほど透明だった。底が見える。白い砂の上に、光の粒が沈んでいる。手を伸ばして——やめた。触れてはいけない気がした。そういう場所だ。
泉の周囲には、石柱が立ち並んでいた。十本以上。どれも苔に覆われ、表面に文字が刻まれている。精霊界の古代語。現代ではほとんど読める者がいない——と、フローシャンテリアが言っていた。
しかし、エリカには読める。
ピンクのめがねがあれば。
エリカはめがねを取り出した。いつもなら「後ろ向いて耳ふさいで」と言うところだ。今回はそれがない。こんな神聖な場所で恥ずかしがっている場合ではない——という判断だろう。
呪文を唱える。めがねが淡く光った。
エリカが石柱に近づき、碑文を読み始める。指先で文字をなぞりながら、目が左右に動く。集中している時のエリカは、周囲が見えなくなる。
「\...\...精霊界の歴史が刻まれている」
声が低い。興奮と緊張が混じっている。
「創世の記録。神柱が精霊界を作った経緯。王家の起源——」
次の石柱に移る。また次。指が碑文をなぞる速度が上がっていく。
「各柱の末裔に関する記述もある。風の柱、炎の柱\...\...順番に書かれてる」
「光の柱は?」
「待って。まだ——」
九本目の石柱。十本目。エリカの足が速くなっていく。
「あった」
足が止まった。
「ここに記されている\...\...」
エリカの声が震えた。
「光の王家に伝わる転移の言葉は——『光よ、道を照らせ』」
沈黙。
フローシャンテリアの目が見開かれた。
「光よ\...\... 道を照らせ\...\...」
その声は、呟きだった。震えていた。目が潤んでいる。
「おばあ様\...\...」
フローシャンテリアが両手で口元を押さえた。涙が頬を伝う。
「おばあ様が、いつも言っていた祈りの言葉と——同じです」
祖母は知っていたのだ。いつかこの言葉が必要になることを。だから孫に教えた。祈りの言葉として。形を変えて、でも確かに——覚醒の言葉を受け継いでいた。
何世代にもわたって守られてきた言葉。石柱に刻まれた文字は千年以上前のもの。それが祖母の声を通じて、今、ここにたどり着いた。
俺は黙っていた。何も言えなかった。フローシャンテリアの涙は、悲しみじゃない。祖母との繋がりを取り戻した涙だ。
ゼファーが静かに言った。
「祖母殿は知っていたのだな。いつかこの言葉が必要になると」
フローシャンテリアは頷いた。涙を拭おうともせず。
碑文を見上げる。千年以上前に刻まれた文字。長い時間を超えて、ここにたどり着いた。
転移具は見つからなかったが、先に転移の言葉が見つかった。




