第10節「生還」
ゼルはエリカを背負って歩いた。
約束に縛られているのだ。「ゼファーのもとへ送り届ける」——その条件が、ゼルの足を動かしている。自分の意志ではない。体が勝手に歩いていく。
四本になった右手から、まだ血が滴っている。指を失った手で、エリカの足を支えている。その屈辱が、ゼルの中で煮えたぎっている。
エリカは意識が半分飛んでいた。背中の温度を感じる。敵の背中だ。不思議な感覚。殺したいほど憎んでいるはずの相手に背負われている。
『\...\...重たいって思ってるかしら』
こんな時に、そんなことを考える自分がおかしかった。でも思考が止まらない。止めたら意識が落ちる。だから——くだらないことでもいいから考え続けろ。
闇の森を抜けた。空気が変わった。腐った匂いが消え、草と土の清潔な香りが鼻を刺す。夜明け前の空が、東の端からうっすらと白んでいる。
前方に、人影が見えた。
ゼファーだ。
合流地点の大木の下に立っている。弓を構え、目を細め、こちらを凝視している。一晩中ここで待っていたのだろう。木の根元に足跡が幾重にも重なっている。歩き回っていた証拠だ。
ゼルの姿を確認した瞬間、弦を引き絞った。
「止まれ」
ゼファーの声は低く、冷たかった。普段の穏やかさは欠片もない。殺気が肌を刺す。
ゼルが立ち止まった。エリカを背中から降ろす。地面に座り込むエリカ。杖を胸に抱いたまま——離さない。
ゼファーがエリカの顔を見た。
腫れ上がった頬。潰れかけた鼻。血まみれの口元。片方の目はほとんど開いていない。体のあちこちに痣と擦り傷。十五歳の少女の顔じゃない。
ゼファーの目が見開かれた。弓を持つ手が震えた。怒りだ。矢先がゼルに向けられる。
「貴様\...\...!」
「約束通り、送り届けた」
ゼルの声は平坦だった。感情を殺している。しかしその目だけが——暗く、深く、燃えていた。
「もう約束は果たした。俺の体は自由だ」
ゼルが一歩後ろに下がった。ゼファーの矢が追う。しかしゼルは構わなかった。
視線がエリカに向けられた。座り込んだまま、片目だけでゼルを見上げるエリカ。
「女。——この四本の指を見るたびに、お前を思い出す」
右手を掲げた。血が止まりかけた、四本の指。
「次に会った時——覚悟しておけ」
闇が揺らいだ。ゼルの姿が影に溶けるように——消えた。
ゼファーが矢を下ろした。弓を地面に突き刺し、エリカのもとに駆け寄る。膝をついて、エリカの肩を支えた。
「エリカ\...\...!」
声が掠れていた。四十五歳の戦士の声が、震えていた。
「\...\...ゼファーさん」
エリカが笑った。腫れた顔で、血だらけの唇で。
「杖、取り返したよ」
胸の中の白い杖を、少しだけ持ち上げて見せた。
ゼファーは何も言わなかった。唇を噛み、目を伏せ、それからエリカを——そっと抱き上げた。
「帰るぞ」
一言だけ。それ以上の言葉は要らなかった。
韋駄天が走り出す。風が髪を攫う。エリカはゼファーの腕の中で目を閉じた。行きとは違う。脇に抱えられるんじゃなく、両腕で抱かれている。父親に抱かれる子供のように。
風が頬の傷に沁みた。痛い。でも——温かい。ゼファーの体温が伝わってくる。この人が待っていてくれた。一晩中、ずっと。
『帰れる——みんなのところに、帰れる』
カイトは怒るだろうな。「なんで一人で行ったんだ」って。怒鳴って、泣きそうな顔して、でも最後には——「よくやった」って言ってくれるだろうか。
意識が遠のいていく。杖だけは、手から離さなかった。
朝日が昇る。金色の光が二人の背中を照らしている。
韋駄天の風が、朝もやを切り裂いて走った。




