第9節「約束の成就」
ゼルの絶叫が廃神殿を揺らした。
「ぐっ\...\...がああああっ!」
指を失った右手から血が噴き出す。赤い飛沫が石壁を汚した。ゼルの顔が苦痛と怒りで歪む。銀髪が乱れ、蛇の目が見開かれた。端正な顔が、獣のように醜く歪んでいる。
四本になった指が痙攣している。血が石畳に黒い染みを広げていく。
ゼルは怒りに任せてエリカを殴る。
椅子は固定されていたが、エリカの顔はあさっての方向を向く。
エリカはゆっくりと顔を戻し、下を向く。
そこに、鼻から滴り落ちる血が、ポシェットに落ちる。
ゼルの血が先。エリカの血が後。
——血の順番が、揃った。
あの夜、図書館で読んだ古文書の記述が脳裏をよぎる。「両者の血が正しい順番で揃って初めて、拘束力が生まれる」。
殴られることは、想定していた。殴られれば血が出る。血が出れば手紙にかかる。痛いのは——計算のうちだ。
エリカはゆっくりと顔を上げた。腫れ上がった頬。潰れかけた鼻。口元から血が垂れている。片方の目は腫れてほとんど開かない。
その顔で——笑った。
「約束は\...\...交わされた」
声が掠れている。でもはっきりと聞こえた。
「手紙の中身を\...\...見るがいい」
ゼルは怒りに我を忘れていた。左手で刃を抜き、エリカに突きつけた。殺す。今すぐ——
刃が止まった。
腕が動かない。エリカの首元まであと数センチ。そこで、見えない壁にぶつかったように——凍りついた。
「な\...\...何だ、これは\...\...!」
ゼルの声に初めて動揺が混じった。力を込めても、腕が進まない。エリカを傷つけることができない。体が——約束に縛られている。
「おのれ\...\...何をした\...\...!」
ゼルはようやくポシェットに目を落とした。震える手で封筒を引き剥がし、中の手紙を取り出す。
血に滲んだ文字が、蝋燭の灯りに浮かび上がった。
——「『人々を癒す杖』を私に渡し、私を傷つけずにゼファーのもとへ送り届ける」
ゼルの顔から血の気が引いた。
杖を渡せ。傷つけるな。送り届けろ。三つの条件が、約束の手紙によって絶対の拘束力を持って——ゼルを縛っている。
「おのれ\...\...騙したな\...\...!」
ゼルが吠えた。刃を振り上げる。しかし届かない。拳を繰り出す。届かない。魔法を唱えようとする。喉が詰まって声が出ない。何をしても——エリカを傷つけることができない。
ゼルの表情が変わっていく。怒りから——恐怖に。自分の体が自分の意志に従わない。それがどれだけ恐ろしいことか、ゼルは今初めて知った。
約束は、絶対だ。
エリカは腫れた目でゼルを見上げた。体中が痛い。意識がぼやける。でも——声だけは出す。
「杖を\...\...渡して」
ゼルの顔が屈辱で歪んだ。歯を軋ませ、拳を震わせ、それでも——逆らえない。
長い沈黙。
ゼルは懐から杖を取り出した。白い杖。先端に淡い光が宿っている。フローシャンテリアの覚醒具——「人々を癒す杖」。
エリカの膝の前に、投げるように置かれた。
「約束通り\...\...ゼファーさんのところまで\...\...送ってもらうわ」
声は弱かった。でも——勝者の声だった。
ゼルは何も言わなかった。指を失った右手を押さえ、血を滴らせながら、エリカの縄を解いた。
縄が解けた瞬間、体中の痛みが一気に押し寄せた。
ゼルが低い声で言った。
「覚えておけ、女」
四本の指がエリカの顔を指す。
「この借りは——必ず返す」
その声には、殺意とは違う何かがあった。底の見えない、暗い執念。エリカは背筋に冷たいものが走るのを感じた。しかし——今は、勝った。それだけでいい。
エリカは立ち上がろうとして——膝が折れた。床に手をついた。体が言うことを聞かない。でも手だけは動く。杖を拾い、胸に抱いた。冷たい金属の感触。でもどこか、温かい光を感じる。フローシャンテリアの杖だ。この杖を返すために、ここまで来た。
『勝った——』
意識が薄れていく。痛みが全身を覆っている。でも——手の中に杖がある。約束を、果たした。それだけで十分だった。




