第8節「エリカの賭け」
廃神殿の中は薄暗かった。エリカは一人で闇の中にいた。
石壁は苔むし、空気が重く淀んでいる。腐った木と湿った土の匂い。蝋燭が数本、申し訳程度に灯っているだけだ。
エリカは狡猾の手下に連れられ、広間に通された。足音が石壁に反響する。自分の足音がやけに大きく聞こえた。
椅子に座らされる。手首を背もたれに縛られ、足首も椅子の脚に固定された。手足の自由が完全に奪われる。ロープが肌に食い込んで痛い。
——予想通り。やっぱり縛ってきた。
エリカは膝の上に目をやった。ポシェットがある。
裏返っていた。
ロープが肩紐を巻き込んでポシェットごとねじれている。ぬいぐるみの重心細工が意味をなしていない。蓋が下を向き、手紙が隠れている。
『やっぱり裏返ったわ。——プランB、開始』
心臓は速い。でも頭は冷えている。こうなる確率は三割と見ていた。想定の範囲内だ。
見張りの手下が一人、退屈そうに立っている。エリカはその男を見た。思念が流れ込んでくる。
『つまらん任務だ\...\...こんなガキの見張りなんて\...\...早く終わらせて帰りたい\...\...』
——完璧。退屈で苛立っている。これ以上ない獲物。
エリカは深呼吸した。そして——演技を始めた。
「ちょっと!」
甲高い声を上げた。わざとだ。
「ぬいぐるみのクマちゃんが裏返ってかわいそう! 見てよ、ほら! クマちゃんの顔が下向いてるじゃない!」
手下が眉をひそめる。
「そんなデリカシーがないから、うだつが上がらないのよ!」
手下の思念が変わった。
『うるさい女だ\...\...黙らせたい\...\...だが殺すわけにもいかん\...\...』
殺せない。相手の心理を読み切っているから——わざと鬱陶しくする。
「クマちゃんが見えないと私、落ち着かないの! お願いだから直して! ねえ! 聞いてるの!?」
声を大きくする。壁に反響する。手下の顔に苛立ちが浮かぶ。
『うるさい\...\...黙れ\...\...頭が痛い\...\...あーもう、直してやるから黙れ\...\...!』
手下がずかずかと近づいてきた。乱暴にポシェットを掴み、裏返した。クマのぬいぐるみが上を向く。そして——内側に貼り付けた手紙も、上を向いた。
『第一段階——クリア』
エリカの心臓がドクンと鳴った。顔には出さない。怯えた少女の表情を維持する。
「ありがとう\...\...クマちゃん、怖かったよね\...\...」
『これで手紙が表に向いた』
ぶつぶつとぬいぐるみに話しかける演技。手下は呆れた顔で持ち場に戻った。思念は『頭のおかしい女だ』。
上等だ。
しばらくして——足音が響いた。
石畳を叩く、規則正しい足音。広間の空気が変わる。
ゼルが現れた。
銀髪に切れ長の目。端正な顔立ち。美しい。しかし——どこか爬虫類を思わせる冷たさがある。笑っていても目が笑わない。蛇の目だ。
広間の空気が、ゼルを中心に凍りついた。
エリカはゼルの思念を読んだ。
『変わった女だ。怯えていない。\...\...面白い』
怯えていないんじゃない。震えるほど怖い。でも——顔に出さないだけだ。
エリカは作戦の第二段階に入った。ゼルの自尊心をくすぐる。
「私を殺すつもりなのね」
「物分かりがいい女は嫌いではない」
ゼルの声は滑らかだった。余裕がある。捕らえた獲物を弄ぶ猫のような態度。
「最後だからお願いを聞いてほしいの」
ゼルが片眉を上げた。
「私を殺す手が見たいわ。最後のお願いよ」
自分でも馬鹿なお願いだと思う。でもこれしかない。指を口元に近づけさせる方法は。
ゼルの思念。『変わった願いだ。死を前にして、殺す手を見たいとは』
エリカは続けた。声を震わせた——これは半分演技で、半分本物だ。
「あなたは高い身分の人でしょう? 最後のお願いくらい、聞いてくれるわよね」
『\...\...まあいい。最後の願いくらい聞いてやろう。どうせすぐ死ぬ女だ』
ゼルが手を掲げた。白い手。長い指。エリカの視界に、五本の指が映る。
「もっと近くで見せて。目が悪いの」
ゼルが一歩近づいた。手がエリカの顔の前に来る。指先から、微かに血の匂いがした。この手で何人殺してきたのだろう。考えるな。今は考えるな。
「キレイな手ね」
褒める。ゼルの思念に微かな満足が流れる。自分の美しさに自覚がある男だ。そこを突く。
「そのミサンガも素敵。ついでに手首のところもよく見せて」
ゼルは気分よく手首を返した。手のひらがエリカの方を向く。指がエリカの目の前に、さらに近づく。口元まであと十センチ。
もう少し。
「ねえ\...\...その指の関節、すごく綺麗に曲がるのね」
『変わった女だ。まあ、最後の鑑賞くらい好きにさせてやろう』
ゼルの指がさらに近づいた。あと五センチ。
エリカの心臓が爆発しそうだった。体中の血が沸騰している。口の中の鋼が、舌に冷たく当たる。
カイトの顔が浮かんだ。「絶対に帰ってこいよ」。——帰る。必ず帰る。そのために。
『今——』
口を開いた。歯の奥で、鋼が冷たく光った。
噛んだ。
全力で。歯を立てるなんて生易しいものじゃない。顎の力を全て込めて、鋼を仕込んだ歯で——ゼルの人差し指に食らいついた。
骨に鋼がぶつかる感触。硬い。でも——砕けた。鋼の刃が骨を断ち、肉を裂き、指が——ちぎれた。
口の中に鉄の味が広がった。他人の血だ。熱くて、生臭くて、吐きそうになる。口から指の欠片を吐き出す。膝に落ちる音。ポシェットが赤く染まる。
でも——止まるな。まだ終わってない。




