第4節「逃げろ、全力で」
エリカの背中が森に消えてから、たぶん十分くらいぼうっとしていた。
フローシャンテリアが隣で心配そうにこちらを見ている。いかんいかん。守ると決めたのは俺だ。いつまでもモヤモヤしている場合じゃない。
頭を切り替えろ。
俺は考えた。狡猾が攻めてくるとしたら、どう来る? あの使者の態度を思い出す。ふんぞり返って、偉そうに、正面から堂々と乗り込んできた。プライドの塊みたいな男だった。
『あいつなら、正面突破してくるな。変に小細工するタイプじゃない』
正面から来るなら、迎え撃てる。しかも——あいつのプライドをズタズタにしてやれば、冷静さを失うはずだ。
名付けて、「プライド踏んづけ大作戦」。
我ながらひどいネーミングだ。でもわかりやすい。
「フロー様、衛兵を全員、中庭に集めてもらえますか」
「はい、すぐに」
「あと、様付けはやめてくださいね」
——十分後。中庭に三十人ほどの衛兵が整列していた。
甲冑が朝日を弾いて光る。しかし、その顔には緊張と不安が浮かんでいた。無理もない。狡猾の恐ろしさは、この国の人間なら身に染みて知っている。
俺は全員の前に立った。深呼吸。腹に力を入れる。
「衛兵の皆さん、聞いてくれ」
声を張り上げた。中庭に響く。
「もう知っていると思うが、今回の敵——狡猾は強敵だ。襲ってくるかどうかはまだわからない。でも、もし来たら——」
一拍、間を置いた。
「全員で戦っても、たぶん勝てない。相手は化け物だ」
衛兵たちの顔が曇る。わかってる。不安を煽りたいんじゃない。
「でもよく考えてほしい。——俺たちは、勝つ必要があるか?」
空気が変わった。衛兵たちが俺を見る。
「別に勝たなくても、王女の命を守れればいいんだ」
何人かの目が見開かれた。
「だから俺に誓ってほしい。狡猾と——決して正面から対決するな」
ざわめきが起きる。俺は拳を握りしめて続けた。
「そして絶対に、自分の命を粗末にするな! 俺たちは——徹底的に逃げて、逃げて、逃げまくって——」
声を最大にした。
「狡猾のプライドを、ずたずたにしてやるんだ!」
沈黙。
——そして、衛兵たちの目が変わった。恐怖が消えていく。代わりに灯ったのは——闘志。逃げていいと言われた途端、戦える気がしてくる。人間って不思議だ。
「いいか、ここから俺たちは一心同体だ! みな、ついてきてくれるか!」
「おおーっ!」
「王女を守れるか!」
「おおーっ! 王女を守ろう!」
よし。いける。ノリがいい。調子に乗って——
「全部終わったら、王女のおごりで宴会だー!」
「うぉぉぉぉーーーーーっ!」
中庭が割れんばかりの歓声に包まれる。衛兵たちが拳を突き上げている。うん、いい雰囲気だ。完璧——
「カイトさん、調子に乗ってません?」
フローシャンテリアが笑顔で耳打ちしてきた。笑顔だけど目が笑ってない。
「\...\...すみません。つい」
「宴会の費用、あとで請求しますからね」
怖い。この人、優しい顔して怖い。
俺は衛兵たちを四つの班に分けた。
「A班は東廊下を担当。床に油を塗れ。敵が踏み入った瞬間、つるっと滑るやつだ」
「B班は西廊下。天井に水袋を吊るせ。紐を引けば落ちる仕掛けにしろ」
「C班は中庭周辺。落とし穴を三つ掘れ。上に薄い板を乗せて葉っぱをかぶせとけ」
「D班は全体の遊撃。小石と反射板を持って、影から影へ移動しろ。敵を挑発して逃げるのが仕事だ。一番重要な役だぞ」
衛兵たちが目を輝かせている。
準備が始まった。宮殿中がバタバタと騒がしくなる。油を運ぶ者、水袋を縫う者、穴を掘る者。俺もあちこち走り回って指示を出す。
どの罠も「当たっても死なない」ものだけだ。殺すための罠じゃない。プライドを砕くための罠。
フローシャンテリアが「私も戦いたいのですが」と申し出てくれた。
「いや、姫さんには別の仕事がある」
俺は「観察の水晶」を指さした。
「あいつらの動きを記録してくれ。弱点が見つかるかもしれない」
フローシャンテリアは少し考えてから、頷いた。
「\...\...わかりました。観察は得意です」
日が高くなっていく。準備は着々と進む。
あとは——敵を待つだけだ。




